いのちの御霊に生きるために
ローマ書8章1節~4節*1
- ありのままの自分
- こういうわけで、とは?
- これ以上でもこれ以下でもない*4
- 聖書は信仰を持つ人に、新しい生き方を始めることが出来ると約束している
- Ⅰ.イエス様が人間になられた目的は私たち人間のいやらしい人間性をほんとうに心底理解するため
- Ⅱ.そのような神の概念がパウロに7章25節のような等身大の自分を表明する勇気を与えた
- Ⅲ.等身大の自分を積極的に認めるところにローマ8:1~4の約束は働き始める
- 一日がはじまるたびに
- お祈りをいたします
みなさん こんちには。
庭の家チャペルの牧師 伊藤と申します。
今回は、「いのちの御霊に生きるために」というテーマでご一緒に聖書のみことばに目を留めていきましょう。
今日の箇所は、新約聖書のローマ書のクライマックス地点で、ちょうど登山に例えると頂上にあたるところです。
ありのままの自分
先週は、7章の最後の節のところで、ありのままのパウロ自身を表明している、というところでした。
自分を必要以上に責めることもなく、また、まるで聖人にでなったと言っておごるのでもなく、失敗しやすく、悪いことを考えてしまう罪深い者であと同時に、信仰によってイエス様の義(きよさ)に与らせていただいている者でもある、という、ある意味では矛盾した、二重人格的な立場です。でも、その両方の立場に甘んじていくこと(バランスですね)が大切で、またそれは、とても難しいことでもあると思います。7:25.*2
ミントの花
こういうわけで、とは?
8:1に「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」との滑り出しですが、この「こういうわけで」というのは「どういうわけ」なんでしょうか?
多くの聖書学者の解釈は7:6節のところを受けて「こういうわけで」なのだというものです。7:6*3
しかし、最初に見ましたパウロのありのままの姿勢の宣言のところを考えると、「こういうわけで」というのは、その、すぐ直前の7:25を受けてのことといえなくもないのではないか、と考えます。
これ以上でもこれ以下でもない*4
そんなありのままの姿勢が8章1節から4節までの、ローマ書の頂上と言われる「いのちの御霊によって歩む生き方」の秘訣になることなのではないか、ということです。ここに信仰を持つ人の実生活が変わる、ということが約束されています。宗教改革者カルヴァンも似たようなことをその本の中で言ってます。
Ⅰ.信仰者のつねにつきまとう不完全さ
Ⅱ.神がそれを忍耐し、赦したもう、いつくしみとやさしさ
Ⅲ.御霊による新生 カルヴァン(ローマ書注解)
信仰をしていく人に必要なのは、この三つのバランスの中にあゆむことです。
聖書は信仰を持つ人に、新しい生き方を始めることが出来ると約束している
2「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はなし遂げて下さった。」
律法の大切さ ※*5
「ゲゲゲの鬼太郎」が天国行きだと思って乗った列車が地獄行きだったというのがありましたが、律法の限界があって、終着駅は「見捨てられ感」という、投げ出されてしまったかのような途方に暮れるような顛末(てんまつ)でしたね。
願い通りに生きていけない原因は律法ではなく自分の無力さにある
「3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
とあって、その目的が
「4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
というふうに、信仰生活を始める人は、愛のおきてを守ることができるようになると約束しているのです。
出来なかったことが出来るようになり、やめたくてもやめられなかったことをやめることが出来るようになる
どうすればそのような生き方をすることが出来るようになるのでしょうか。
「3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
とあって、イエス様が私たちと同じ罪深い人の形で肉をもっておいでになったという事です。そのことは、次のとても大事ないくつかのことを私たちに教えてくれています。
Ⅰ.イエス様が人間になられた目的は私たち人間のいやらしい人間性をほんとうに心底理解するため
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ヘブル 4:15
イエス様は神様なんだから、たとえ人間になったって、こんな自分みたいな愚かしい意志薄弱で、ごまかしやすく、人を見下しやすく、人をねたましい目を見てしまうようなイヤらしい人間性なんかとは無関係な生涯だったんだろう、そう私たちは考えてしまいがちですが、そうではありません。むしろ、そんなやましい思いがあることを理解できるようになるために神は人になられたと聖書は語り掛けているのでなかったでしょうか。聖書が言う神は、そんな在り方をする存在です。ここまでは良いがこれ以上のことをした人はダメですとかは絶対に言わない人格(神格)をもった存在です。
Ⅱ.そのような神の概念がパウロに7章25節のような等身大の自分を表明する勇気を与えた
このパウロの勇気ある表明は、以前のことを言っているのでありません。これは現在形です。ざっくばらんにありのままの自分を悪びれることなく、気後れすることもなく、率直に神と人の前に言い表す大胆さを持った人だっのではないでしょうか。
Ⅲ.等身大の自分を積極的に認めるところにローマ8:1~4の約束は働き始める
ローマ書のクライマックス、聖書のクライマックスと呼ばれているこのローマ8章の実現は、そんなものでしかない自分を正直に神の前に認めることのなかに、起こると信じます。
聖霊さま私をお助け下さい。導いて下さい、と語りかける。
内村鑑三先生のオススメ*6
7:25「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」というのは内村鑑三氏によると「イエス」の名の方が先にあるので、その場合は、人となられたキリストと言う意味なんだそうです。(ロマ書の研究下)
大祭司なるイエス様は、今日も私たちの求めに応じて下さって、私たちの歩みを現実に、善なるみ心に適う歩みへと新しく導いて下さるのです。
一日がはじまるたびに
私たちが天国に召されるその日まで、罪と死の原理といのちの御霊の原理の両方の中を私たちは、このように歩み続けるのだ、というありのままの自分を認めて、一日が始まる時に、ちょっとでもいいので、善なる方へと、いったいこのことについての神様のみ心は何ですか? この人との接し方についてはどうですか? 祈りつつ、心を用いていきたいのです。
お祈りをいたします
天の父なる神さま
私はどこまで行っても、私でしかないのだと‥‥。
罪の原理とみたまの命の原理の中を正直に歩む、そのことを拒むことはできません。
明日もまた新しい一日が始まる時、どうか、わたしがみ心を少しでも知り、実行して行けますように。
イエスキリストのゆえに、感謝いたします。
アーメン
*1:8:1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 8:2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 8:3律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 8:4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。口語訳
*2:わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
*3:しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
*5:律法とは旧約聖書に出てくるさまざまな掟のこと。モーセの十戒のときにあわせて啓示された。新約聖書ではイエスがそれを愛の掟(おきて)として批准」された。