ローマ書7章14節~25節*1
みなさん。こんにちは。庭の家チャペルの牧師 伊藤と申します。
今日は、「霊的な歩みの回復のレッスン」というタイトルで今日の箇所をご一緒に見ていきたいと思います。
Ⅰ.聖書が語る霊的とはなにか
「律法は霊的なものである」。14節
(口語訳)
これはどういう意味でしょうか。
14節から15節まで読んでいくと、「霊的」とは神のみ旨に適(かな)う事(つまり律法のことですね)、という意味でパウロが使っていることがわかります。
特に、16節で、「もし私が自分がしたくないことをしているとすれば、律法はよいものであることを認めているわけです」とあることから、自分でもこうありたい、こうならねば、と願いつつもそうできない~そこには自分の力を超えた優れた基準がある。律法はよいもの、優れた内容だと認めているわけです。信仰をもって生活を始める人は、できるだけ聖書に書かれてあるような生き方をしてみたい、つまり神さまのみ心に適う生活を送りたいと願うものです。
わたしはやめたくてもやめられない嗜癖のアンダーコントロールにある?
14節。「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。」15節。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」(口語訳)
「罪の下に売られて」とは「奴隷」という意味のようですが、「奴隷」には、自分の尊厳とか権利とかがありません。奴隷は、自分でありながら自分の思いどおりに生活することができない人のことです。
つまり自分で自分に対するコントロールを失っている
自分で自分の毎日をコントロールできないでいるのが奴隷です。それは主人の意のままにあるからです。
良い主人のならまだいいのですが、パウロは17節で「この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」と言っています。やめたくてもやめられない嗜癖(罪)が主人になっていると言っています。
ほんとうはもっと
ほんとうはもっとこんなふうに過ごしてみたいと考えているのだけど、まるで自分がなにかほかの法則か原理のようなものの下にあって、自分の意に反して、本当はもっと親切な言葉がけをしたいのにできない、ほんとうはもっと規則正しく生活したいのに、浪費してしまうだとか、時間にルーズで困っているだとか、夜更かしがなおらないなどの隠れた悶々としたマグマのようなものがたまっているというジレンマについて語っているんですね。
見捨てられ不安感
若いころJRの行き先を間違えて乗ってしまったことがありました。こまったな、とうつむいていると、知り合い方が、「そんなに落ち込まないで!」と笑って言われたことがありました。
ゲゲゲの鬼太郎ではありませんが、天国に連れて行ってくれるはずだったのに気が付くと地獄だったというやつです。ゾッとするわけです。
パウロが24節で「私は惨めな人間です」と言ったわけは、ちょうどそれと似ていて、律法こそは自分を天国にまで導いてくれるものと信じていたのに、困ったときには、助けてはくれなかった。見捨てられてしまったかのような思いに陥ったのだと思います。
Ⅱ.弱さは無責任とは違う
19節を読んでみましょう。
「 7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(口語訳)
ある人はこのところを読んで、無責任だとか二重人格者のいう事だと言います。
でも、そうではありません。
なぜかというと、彼はここで「自分でしたいと思う善を行うことが出来ない」と正直に書いていますが、これを逆にしてみると、「私は自分でしたいと思う善を行える」となります。また、したくない悪を行うとありますが、それを逆にすると、「したくないと考えている悪は行わないようにできる」となります。そして、もしそう断言するなら、「救い」は必要ないことになりますね。
聖書でいう「罪」を「病気」に換えて考えてみましょう。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 ‥‥わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マタイ9:12-13.(イエスのことば)
もし、私たちが悪い病気にかかってお医者さんに診てもらうとします。すると余りの悪い状態に、お医者さんが怒るでしょうか。患者さんを叱るでしょうか。それは困ります。
自分には手に負えないとわかったからこそ、助けてもらいたくて病院に来たのですから怒られては困ります。
名医は、きっと、そして優れたスタッフはきっと、じっと耳を傾けて、病状を聞いて、治るまで寄り添ってくれるでしょう。
同じように、教会に行ってみたい、聖書を読んでみたい、信仰を持ちたいと願う人は、ちょうど病院に駆けこむように、たましいの救いがほしくて永遠のたましいの名医イエス様のところに来たはずです。自分は、霊的に、破綻者だということがわかったからこそ、信仰を持ったのではないでしょうか。
だからパウロは、「25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言ったんですね。
Ⅲ.信仰生活とは、霊的な歩みの回復のレッスン
25「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」
ここにパウロは日常的な出来事としてこのことを書いていることに気を付けてみてみましょう。
等身大の自分をわすれない
どんなにビジネスマンよろしく大声で肯定的なことを叫び続けてみても、すこしたつと自分の内に確かな安心できる確証がなくて、この先だいじょうぶなのだろうか?となってしまうことはありませんか。今までのことを考えると自信がないのです。
万能感は捨てて
しかし、大事なことは、自分が完全な人になれるかどうかではないと思います。聖くなれたかまだなれてないかなどという事ではなくて、ただ、この25節のパウロのような姿勢を一生涯忘れないで歩き続けることが大切だと思います。
たとえクリスチャンであっても、
利己心や不正直な自分、悪いことを考える自分、あるいはそれ以上に個人的ななにか問題を抱えている信仰者もおられるのではないでしょうか。でも、その都度、そんな葛藤(かっとう)が起こるたびごとに「自分が罪を犯すことしかでいないくらい霊的に弱い存在なのだといことを認めて祈るたびごとに、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と祈ることを学んでいきます。
そして「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」
今の等身大の自分を見ることを学んで、行きます。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。新約聖書第一コリント 15:10
世紀の伝道者パウロ。
でも、彼は振り返ったとき、「それは、私ではない、私にある神の恵みだ、と」と言うほかはなかったのでした。
その理由は、等身大の自分を日々見失うことなく歩き続けたからです。
わたしたちも、パウロと共に、一歩、一歩、そのことがわかるかわからないか~一生涯がそのレッスンにあることを覚えながら歩き続けたいと思います。
お祈りをいたします。
神さま。
上手くいくときもあれば、そうもいかない時もあります。
くさってみたり、うなだれてみたり、いろんなことがあるのです。
でも、これ以上でもこれ以下でもない。
私にあるのは、ただ神からの恵み、そういうほかはないことを、学び続けていきたいと思います。
思い上がりやすく、急ぎやすく、行き詰りやすい私です。
どうぞ、お導き下さい。
イエス様のお名前で アーメン※
※アーメン=本当にそう思います、という意味です。
*1:7:14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 7:15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。