聖書のある暮らし

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「神の選びの計画~信仰の必要性」

「信仰について」

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この山に向かって動けと言えば、その通りになる。

             イエス・キリスト

 みなさんこんにちは。庭の家チャペルの牧師をしております伊藤ともうします。

九章から始まるローマ書後半の概観を少しだけご一緒に見ていきましょう。

ローマ書九章は「神の選びと神の主権」、そしてそのような一方的な神からの祝福、救いを受け取るには、私たちの側の信仰が必要だということについて書かれています。今回は、「信仰について」です。

 

 

ローマ9:30-33*1

 32,33節に「躓きの石」とありますが、これはイエス様のことですね。イスラエル人は、救いを戴きながら、それを拒絶しました。その理由は、イエス様に信頼すれば救われるという教えの福音を受け入れられなかったからです。10章3,4を見てみましょう。

10:3なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 10:4キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 ローマ 10:3,4.

 ユダヤ人たちは立派な行いで天国に入れるように努力しました。

信仰、信仰生活のキモ

信仰を持つときもそうですが、信仰をもってその後のいわゆる「信仰生活」 をスタートさせたあとも変わらずに大切なことは、宗教的、善行で心に平安を持とうとしてはいけないということです。では実際にどうやって信仰生活をおくれば良いのでしょうか。

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たとえば悪い考えを持ったりするとき、くよくよと自分を責めることがあります。でも、これは本当はよくないことです。なぜでしょう。ユダヤ人と同じように自分で責任を負おうとしている精神状態だからです。こんなときどうすればいいのでしょうか。神さまに信頼するという姿勢をとることが大切です。自分にはできなくても神さまにはできる、というこころの態度です。

それはどういうことでしょうか

パウロは言いました。いえパウロほどの信仰の偉人が言いました。なんといったか? 「私は罪びとの頭です」と言いました。つまりどこまで行っても、いつまでたっても自分という人間はこんなもんでしかないということを認めるということです。

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これを病気にたとえてみると

どんなに精神論を振り回して、自分は健康!といってみてもタチの悪い進行性の病気にかかると、だれも勝てません。お腹を開けてみるともう手に負えないような病巣が広がっているということがあるわけです。こんなときはどうしたらいいのでしょうか。魂の名医であられるイエス様に、お任せするしかありません。

つまり「私は病んでいるものです。この罪と言う進行性の病に打ち勝つすべは持っていません。ただ、私のために十字架にかかられ、甦られたお方にこんな私をお任せいたします」と祈って下さい。

おいのりのしかた

主の十字架の血潮によって私を清めて下さい。私は御国に行くまでこんなものでしかありません。わたしにはできないけど、あなた(神さま、イエス様)にはできます。そう言って、主に自分をお任せしていくのです。そうしてみてください。

 ええっ、そんなことで自分は変えられていくのですか?

そうです。そうするなら、必ず、変えられていくのです。

もう一度30‐33節を読んでみてください。

9:30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 9:31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 9:32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

9:33「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、さまたげの岩を置く。
それにより頼む者は、失望に終ることがない」

と書いてあるとおりである。

 ▼躓きの石イエス様。信仰による義。自分にはできないという事を日々認めること。しかし、神には何でもできないことはないことを。み言葉のお約束をもって確実にそのことを私の内に、また私の周りに成し遂げて下さるのだ、という事を毎日、こころに葛藤が走るたびに、そう告白しましょう。

「自分は無力です。しかし神にはどんなことでもできる」と。そのとき聖霊の神の目に見えないお力が働かれるのです。

今回はごいっしょに、九章以降の概観をふまえて、とくに信仰について、信仰によって、神の用意されている祝福を受け止めることが出来るという事について、考えてみました。

実生活上のいろいろなことに適用しよう

これらのことを個人的な思考の生活だけではなく、癒しの祝福、生活上の悩みや課題に、そして救霊のお働きの為に、適用していこうではありませんか。

お祈りをいたします

天のお父様。私は信仰を持つ前も持った後も変わらないことは、依然として罪と言うこころの病をもったまま生き続けているという事です。「変えられないものを受け入れる落ち着きを」。自分を変えることはできません。

ただイエスキリスト様のゆえに感謝いたします。

無力なものをただ主の御手にお任せいたします。

私の為に用意してくださっているさまざまな祝福に与らせてください。

そうして私を永遠の小道へとお導き下さい。

 イエス様の御名によって アーメン

 

 

 

 

*1:9:30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 9:31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 9:32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

9:33「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、さまたげの岩を置く。
それにより頼む者は、失望に終ることがない」

と書いてあるとおりである。