聖書のある暮らし

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「世の終わりの時代と残された者」 イザヤ4:2‐6

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世の終わりの時代と残された者」 

 

こんにちは。

庭の家チャペルの牧師 伊藤と申します。

今日は、旧約聖書イザヤ書4:2-6の箇所から、「世の終わりの時代と残された者」という題で、ご一緒にみ言葉を見ていきたいと思います。 

 イザヤ4:2‐6 *1

世の終わりに純粋に主を礼拝する教会

 「その日」(2節)という表現は、聖書では、主の裁きの日を表す言葉です。 

また、クリスチャンにとっては「その日」は、救いの完成の時という意味でもあります。 

「主の枝」とはイエス様のことです。 

前回、1節の「一人の男に七人の女」とあったところは「黙示録」に出てくる終末の時代の七つの教会の例えだということを学びました。 

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かつてニューヨークで牧師をされていたデービッドウィルカーソンという人も同じように、一人の男と七人の女は、やはり黙示録の七つの教会とイエスキリストの例えだと解釈されています。彼は、そのメッセージの中で、終末の時代に、主に捧げる花嫁なる教会の在り方というテーマでこの箇所をピックアップしています。世の終わりの時代は困難が多くなるので、教会が純粋に主を礼拝することが難しくなるからだというのです。

教会は主の栄光をほめたたえるために召し出された群です。 

この2節にある描写はイエス様のすばらしさをたたえています。

新改訳では、この箇所は、「威光と輝き」と訳されています。

私たちも、ますます主を自宅で、教会でたたえ賛美の歌を歌いましょう。

今は、コロナですから、スマホを使って賛美の時を一緒にすることもできます。

また、祈祷会もできます。 

 

残りの者、残された者、レムナントピープル

3,4節は、バビロン捕囚から帰還したイスラエル人たちのことについての予言の箇所です。

また同時に、私たちのことについても語っている箇所です。 

ここに「残された者」とあります。 

これは、バビロンによる裁きののち捕囚から都に帰還した民のことでもありますが、同時に今日、様々な試練や困難を潜らされてなお、悔い改めの祈りをもって、主に自分自身を捧げていく終末の時代のクリスチャンたちのことをも言っている信じます。

「聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い」3節4節 

 この地上で過ごす時間は一瞬で、地上での日々は天国へ旅立つまでの準備の時です。 

今、私たちはこの地上でそのための準備をしているのです。  

私たちの信仰生活は、「得ること」ではなく、「失うこと」だと思う。 

私たちは失うことに大胆でなければならない。 ちいろば牧師 

全ての人の問題点は、自分が神であろうとしていることにあります。

それは、あのエダムとエバが善と悪を知る木の実を食べた時以来の問題です。

そうするのがいいと思って、そのように生きてみるのですが、次第にそれがどんなに間違っていたかということを、認めるところまで神様は私たちを訓練して、導いてくださいます。

それはやりたいようにやるという人間の慢心が、実は小さな癖や悪に対してさえも対処することもできないでいる自分を正直に見るならわかることです。ささいなことで怒りやすく、ひがみやすく、殻に閉籠りやすい自分があります。 

その理由は唯一の神の代わりに、自分が神であろうとしている方からです。

またこれからもそうであろうとしているからです。

ただ一つの解決策は、神様の前に、そんな自分を手放して、今すぐに救いの手を指し伸ばしておられる神の聖霊のお力を受けることだけです。 

そのとき、私たちは、イエス様はあまりにも素晴らしいお方なので、賛美せずにはおられない。そのことがわかり始めるのです。

そして、そのことがわかるまで、主は、私たちを導いて訓練してくださるのです。

昔から「潔め」とか「献身」とキリスト教用語で呼ばれてきたことは、そのことではないかと思います。 

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   ユダヤ人の仮庵の祭り:毎年9月ごろ

神の天蓋が私たちを覆ってくださる

そのとき、5,6節にあるように、主が私たちを覆ってくださる天蓋となってくださるとあるのです。

21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。黙示録 21:3、4 

イスラエルの気候は日本よりも厳しいそうです。古代、イスラエル人がエジプトを脱出して約束の地に入るまでの間、暑さや寒さをしのぐ避けどころとして、道中、彼らは木の枝などを使って、あづまやをこさえました。いまも、イスラエル人は当時を記念して「仮庵の祭り」という楽しい時を過ごします。 

この終末の時代にあっても、どんな困難があっても、主は信じる者たちと、ともにおられ、私たちを覆う影、避難所となってくださるというのです。 

また、今の世ばかりではなく、永遠までも御国で私たちを覆ってくださる天蓋となってくださるというのです。 

主に対する信頼をもって、日々を進んで行きましょう。終末の世に、主に信頼するものこそ、残りの民、残された者、レムナントピープルなのです。

コロナ禍にあって

最後に余談ですが、仮庵とは数人が宿れる東屋(あづまや)ですが、聖書には「二、三人わが名において」とありますように、いまは、リモートで各家から礼拝することが世界中で増えてきたそうです。 そのため信者さんの方以外のお宅の旦那さんとかが家庭から一緒に礼拝に参加する(または、見ているだけ)ようになったそうです。KBIの学院長だった大田先生は、著名な方の言葉を借りて、そのことを、「神の国の逆襲」と呼んでいます。 

かつて初代教会が自分たちだけ集まって「内向き」になっていた時、迫害が起きて、いやがおうにも教会は散らされていって、福音が広がっていったように、神様は、いま、コロナを逆に用いられて、福音が広がるように働きかけて下さっているのだというのです。 

 私たちの、この小さな礼拝の中継も、そのように世の終わりにあって、福音のために使われるといいなと思います。 

 

お祈りします。 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

 

*1:4:2その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。 4:3 4:4そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。 4:5その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、 4:6昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。