聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「善をもって悪に勝つ」 

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今日のところは、いかにして怒りを愛に変えるかという箇所です。 

怒りを抑えるということは難しいことです。聖書はこのことについてどのように語っているのでしょうか。 

 

 

ローマ12:1721 *1

 

 

平和な対人関係について 

今日開いた箇所の最初のところには、平和な人間関係について書かれています。「すべての人が良いと思うことを図る すべての人と平和を保つ。」 

「全て」ということは、この聖書が教えているところは、世界中あらゆるところで有効だということです。すべての人に有効だということです。 

 

私たちはどのようにして怒りに対処していくことができるのでしょうか。 

 

復讐心を神の怒りに任せよ 

キリストは私たちを怒りと復讐心から贖いだすために、十字架に死なれた。 

キリストを信じた人たちは、怒りと復讐心という問題から救い出されているのです。 

では、信仰をもたった人たちが、実際にどのようにして、怒りや復讐心といった罪から自由にされ行くのでしょうか。

それはイエス様が私たちに示された実物模範に倣うことによって実現します。

 

2:21あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 2:22キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 2:23ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 2:24さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。  第一ペテロ2:21‐24 

最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。ピリピ書4:8.

 間違った解釈

ここに、復讐は神のすることだとか、燃える炭火がいやな奴の頭の上におかれるとか書かれてあります。でもこれは自分の敵がそういう目に合えばいいんだ、だから俺はだまってそうなるのを待つだけ‥‥それまで我慢がまん。という意味ではありません。

 ここでも私たちは、先週もありました、自分が神にとって代わろうとする傲慢な姿勢に気を付けなければなりません。 

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エスの模範

エスは神であられながら、御自分を痛めつけるものや、唾を吐きかけるようなものに、もう我慢ならない、てめえらぁ~と言って、バッタバッタと面白くない奴らをなぎ倒すということはされませんでした。

逆に十字架の上で、こう祈られました。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているの、自分でわからないでしているのです」と。

これは、神の愛であって、超自然的な愛です。

私たちには出来るものではありません。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか? 

 

敵の頭に燃える炭火を積むとはどういうことでしょうか。 

異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。

第一ペテロ2:12

しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。第一ペテロ 3:16

 炭火とは、神はやがて一切をご主権をもって裁かれるお方であるので、私たちは、ただただ神の前に自分の心の貧しさを認めて、へりくだらなければならない。自分がまず十字架の救いをくださっている神の前に身を低くして、裁判官のような立場をとることをやめて、一切の裁きを神の御手にお任せしてする。

そのとき、敵は相手の立派な態度に恥じ入って、シャッポを脱ぐという意味です。 

しかし、これを理解して、実践するに至るには、ただただ聖霊なる神のお助けなくしてはできないことです。

 

原点にもどって、救いとは何だったのかを考えてみましょう。

救いとは何でしょうか。どうして私たちは救われなければならないのでしょうか。救いの必要性とは何なのでしょうか。 

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それは、アダムとイブが善と悪を知る木の実を手を伸ばしてとって食べたその日から、自分が神になろうとしたことにあります。創造主を除外して神抜きのユートピアを求めて彷徨いだしたことにあります。果てしのない、当てのない幸せ探しの一生を終えて人は死んでいくようになりました。しかし最後には自分の罪と病のために破綻して人生を終えるのです。聖書はそれを罪、または病と呼びます。 

しかし、神はそんな私たち一人ひとりのことを忍耐をもって覚えて下さって、御子イエスを私たちの救いのためにお送りくださったのです。

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世界ではじめクリスマスーイエス降誕

神はそのようにして私たちのようなもののために、まずお仕え下さった~偉大な謙遜の姿をとられ人となった神イエスキリストです。イエス様はこの世に来られて罪びとの友となってくださいました。病に苦しむ人の友となってくださいました。癒しを与え、回復をくださり、永遠の魂のすくいをくださるために十字架上で罪と病の償いを果たされ、死後三日目によみがえられました。それがイースターです。 

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そのことが分かった時、私たちもまた、自分の罪=弱さを病を認めて、主のもとに来たのです。 

であれば私たちがすべきことは、善をもって接する。神の栄光をそうして表していくことです。

よく、何様のつもり?!といいますが、何様であったのは、実は自分だったということに気づかされていくのです。そのとき人は、すべての裁きを御手にお任せして、敵の祝福を信仰をもって祈ることができるように変えられていくのです。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。第一コリント13:13

それは生まれながらの私たちの性質によるものなのではなく、死からよみがえった救い主イエスキリストを信じる信仰によって、信じるすべての人に与えられる新しいライフスタイルです。それは必ず、信じるあなたにも現実の祝福となって与えられます。イエス様を信じ受け入れて下さい。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

*1:12:17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 12:19愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 12:20むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 12:21悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。