聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「神の憐れみにすがる」

神の憐れみにすがる

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今日の箇所はすべてのことが神の憐れみに基づいていることを教えています。今回は、ご一緒に、あらゆることのなかで大切なことは神の憐れみと慈しみだということ、そしてそのことについて私たちはどうあるべきかという事について調べてみたいと思います。今回のテーマは「神の憐れみにすがる」です。

 ローマ9:24-29.*1

 つらかったホセアの結婚生活 

「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。」25節。

 ここで使徒パウロ旧約聖書のホセア書から引用しています。昔、ホセアという預言者がいて、ある日、神さまから娼婦の女性と結婚するように導かれました。妻となったゴメルは子供を産みますがそれはホセアの子ではありませんでした。しかし夫のホセアは遊び歩く妻とその子らに最後まで誠実を尽くすという内容で、それは当時、唯一の神を捨ててあまたの偶像礼拝に走ったイスラエル民族に対する神の愛のメッセージでもあったのです。それは愛せないものを愛するという神の愛のメッセージでした。

実はこのメッセージはイスラエルだけ向けて書かれたのではなく、現在、本物の神ではない石や木の神々を拝む日本人に向けてのメッセージでもあります。また偶像礼拝とは、石や木の神々だけではなく、時にはそれは人であったり他の何物かである場合もあります。偶像を拝む人に本当の幸せはないし、逆に不幸になります。

 聖書のことばに信頼を置くことの大切さ

 使徒パウロは今度は旧約聖書イザヤ書のことばを引用して、永遠の命に入ることが出来る人は少ないこと、しかし神は憐れみをもって救いに入らせようとする人を確実に遅れることなく救って下さるのだと書いています。

たとえ遅いように見えることがあっても、必ず祈り願った通りになるのだから、み言葉を疑ってみたり、みことばを間違ったものかのように看做すことをしてはいけないのです。

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かつてハレルヤおばさんが「皆さんそれはもう起こっているのです」と言っていましたね。それはみ言葉に基づく宣言でした。

ですから実現していないように見えていても、神の目から見ればすでにそうなっているというのですから、聖書のことばに基づいて確りと希望を告白しつづけようではありませんか。

わすれてはいけないこと~全ては神の憐れみに基づいているということ

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 「もし、万軍の主がわたしたちに
子孫を残されなかったなら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラと同じようになったであろう」。29節。

最初の24節にも「あわれみの器」、つまりどんな人でも「神の憐れみ」によって救われるのですよとありました。しかし、私たちは自分を守るために誰かを批判的な目で見るという事をしがちです。しかしそれは自分の非がわかる人にはできないことなのです。看護師さんに石を投げたり、あっ!あのひとあんなことやってる!と高いところに立ちたがる悪い癖があります。それは私たちこそが、実は、明日のわが身であることにきづけないからです。

「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

  私たちもよくよく自分のことを考えて、自分というものは罪と病を抱えている弱いものでしかないことを弁(わきま)えないなら、あの町は不道徳の大敗した町だ!と言って批判していたソドムやゴモラの町のさばきのときと同じようになるといっているのです。

 しかし今自分があるのは、神さまのみ言葉のお陰で生き延び、癒され守られ続けている。ちょうど執行猶予付きのようなものでしかない生活をしているのだということなのですね。情状酌量によって普段の生活が送れているのです。

 何を信じて生きているのか吟味する

 ホセアと近い時代のイザヤという人は、国が安直に強国アッシリアに頼っているのを見て、警告しました。それで大丈夫ですか?目に見えない神に信頼を置きましょうよ、と言って預言(メッセージ)を国民に伝えました。

 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。ローマ 11:22

もしあなたがその慈愛にとどまっているなら」とあります。

 自分の脆(もろ)さ、弱さに気づいていますか

 聖書には異邦人がユダヤ人を見てあれは「変だ」と言ってはならないと書いてあります。その逆バージョンもあります。自分のなかにある弱さ、至らなさ、罪や病、迷いやすいこころ、いろいろです。神は幼子と乳飲み子の口を通して力を打ち立てるとあるのですから、自らの「弱さ」を見ないようにしたりすることなく、積極的に認めて、たいせつなことは神のみ言葉に書かれてある「憐れみ」基づくものだということを毎日忘れないようにしていきましょう。

 単純に日々を気楽に

 勝利の信仰生活はただ何かを知って、もう大丈夫と高をくくって漫然とすることなのではなく、日々日々忘れやすいこのことを思い出して、神の慈しみにより頼んでいくことなのです。

お祈りをいたしましょう

 天のお父様。

 とかく満たされない思いを満たそうとして間違った方向に進んでいってしまいがちです。そんな偶像の思いに解決はないことはわかっています。

 ただあなたの憐れみにすがりたいのです。

 イエス様によってあらわされたあなたの憐れみによって歩ませてください。

 イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

*1:9:24神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 9:25それは、ホセアの書でも言われているとおりである、

「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
9:26あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。

9:27また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、

「たとい、イスラエルの子らの数は、
浜の砂のようであっても、
救われるのは、残された者だけであろう。
9:28主は、御言をきびしくまたすみやかに、
地上になしとげられるであろう」。

9:29さらに、イザヤは預言した、

「もし、万軍の主がわたしたちに
子孫を残されなかったなら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラと同じようになったであろう」。