「神に期待する信仰」
「神に期待する信仰」
今日のタイトルは「神に期待する信仰」です。
今、世界はコロナのことで騒いでいますが、その中においても神のご計画は世の終わりに向かって進められていっています。
ローマ9:14-24*1
前回は、いっさいのことの上に神のご主権があることを学びました。エジプトの王パロがこころ頑(かたく)なにしたのも、イスラエルがイエスを救世主として拒んだのも、神の知恵と支配によるものだったということでした。
そしてそれに対して人は口答えできない。もしそうするなら滅びを招いてしまう。
しかし一方では、神は私たち人間に対する憐れみの心があって、たとえそんな神に対して心を固くするような私たちに対しても、憐れみの心をもって、イエス様を信じ受け入れるときが来るのを忍耐して待っていて下さっている。これらのことを学びました。ですから先週に続いて、今回の14‐24節のキーワードは「憐れみ」です。(23)
18節に「みこころのままに」とあります。神はみこころのままに、憐れもうとするものを憐れみ、頑なにしようとする人を頑なにする。しかしその先には、イスラエル人たちが福音に対して心かたくなにしたことでこの2000年間に福音が世界中に広められて行って、古今東西、多くの人が永遠の命に至る救いを受けるという結果~それは人の思惑を超えた結果でした。
神の知恵は私たち人間の知恵を超えたところにあります。
ですから私たちは安直に神を非難したり、神を恨んではいけないのです。
だから陶器師の手にある陶器が作り主に向かって不平をいうことはできない、ということなんですね。
善なる神に対する期待をもつ
神は「み心のままに意地悪をされている」のではありません。すべては益となるという神さまのみ心に期待していくなら幸せになることが出来るのです。
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。新約聖書第一テモテ 2:4
そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。ローマ 11:11,12
神さまは意地悪い方で、人をあえて倒すために心を頑なにしたり、試練をあたえたりするのではない。世界の富、異邦人の富~福音ですね~となるためにそうされたのだと。ですから私たちは主を信じて、信仰生活を送って行く上で、おごったり、ひくつになったりするのではなく、神さまの御業(みわざ)は善であって、信じるすべての人にとって益となるのだという事を信じていこうではありませんか。
あらゆる生活面での適用
このことは信じる者が聖書のことばの約束に従って受けることが出来る癒しや、まだ信仰を持っていない人がイエス様を信じていくようになることについても適用できることです。
まず自分が神の憐れみの器とされたことを感謝しましょう。
そして、そんな憐れみをかけてくださる神が自分にとって良いお方なのだということを疑わないで、期待をもって祈るなら、神さまは祈りを聞いて下さって、私たちの家族の救いの完成や癒しや必要の備えをもって、お導き下さるのです。
聖霊によっていのりましょう
天におられる唯一の神さまは、先に何が起こるのかご存知です。私たちが異言(霊の言葉の祈り)で祈る時、不思議なことが起こります。癒し、たましいの救い、悪魔の攻撃からの守りが与えられます。聖霊は神様の憐れみによってあらかじめご存じで、とりなし祈りを導いて下さるからです。聖霊によって祈りましょう。
お祈りをいたします
ハワイのカルバリーチャペルの牧師からの信仰の持ち方についてわかりやすいお話です
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