「主に就くものは誰か」
「主に就くものは誰か」
今回の箇所は、国を滅亡から救おうとする神に対して背を向けるイスラエルの国の姿勢についての箇所です。そして、この短い箇所から、神と私たちの関係と、私たちの神に対する姿勢について探ってみたいと思います。
イザヤ書 2:6-9*1
占いの罪/ 軍備増強、偶像崇拝の罪
6節でイスラエルの国が神から捨てられた理由が書かれてありますが、その理由とは占いの罪でした。国外から占いが今の日本のように入って来たのだと思います。私たちの周りでも占いは今やテレビや雑誌などで当たり前のようにあって珍しくありません。しかしかつての日本はそうではありませんでした。聖書よるとそれは罪です。また7節では、国の繁栄が記されています。当時は信仰に篤い善王ウジヤ王の時代だったのですが、実際には、経済力を信奉し軍備増強に頼る政策でした。ダビデのように目に見えない神に信頼を置くものではなかったようです。8節。そうなると当然のように人は必ず他の何かに依存しながら生きていくようになって、国内にはいろんな神さまが増えていって、ご利益が拝まれるようになりました。
低くされた人間
9節。「こうして人はかがめられ、人々は低くされる。どうか彼らをおゆるしにならぬように。」この「彼らをおゆるしにならないように」というのは難解です。これはどういう意味なのでしょうか。
福音書に豊かな穀物を蓄えて悠々自適の生活を楽しもうとしていた矢先、突然死した男のお話が出てきます。
その例話の中でイエスさまは「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおり」だと話されました。ルカ 12:21
では神の前に富む者とはどういうことなのでしょうか。
主に就くものはだれか
C・H・スポルジョン1834~1892 英国
スポルジョンの説教に「主に就くものは誰か」というのがあります。モーセが主に就くものは!といったときにイスラエル部族の一つレビ部族がモーセの側に就いたのです。時は緊迫していました。帰りの遅いモーセに業を煮やした民は宴会を開いて金の子牛の偶像を作り、飲めや歌えやの乱痴気騒ぎに堕した時だったのです。
畏れる心はあるのか
クリスチャンであるわたしたちに果たして福音を拒んでみことばをないがしろにしている人たちに対する怖れる心はあるのか?ということです。「しかたないよね。」とか、「なんとかなるよ」~で終わらせてはいないかということです。
十字架の罪の赦しにともなう永遠のさばきからの救いという福音が告げ知らされることですべての解決があるわけですから、それでは解決にはなっていないからです。
主のみ心を知る
イザヤは主のみ心を思ったうえで、主が彼らをおゆるしにならないようにと祈ったのです。私たちもイザヤと共に主にみ心は何なのかということを考えたいと思います。
つまり主の側に就くものでなければならないという事です。
そして主のみ心は「すべての人が救われて真理を知るようになること」です。
ソロモン・ショー1854~1941米国
19世紀の多分この方は牧師だと思いますが、ソロモン・ショーという人が書いた本があります。"Dying testimonies of Saved and Unsaved"という本です。信仰をもって死んでいった人と、そうではない人の死にゆくさまを記録した本です。その中に、死ぬ直前に信仰を戴いて天国へ行った人のことが書かれています。最初はとても頑なで聖書のことを話すと怒りだすような人だったのですが、病気になって心が変わりだしました。以前は神をあなどり、教会に行く人をあざけっていたような人だったのですが、死に際のわずか二時間ほどの間に天国に入る希望の福音を受け入れて、その後、奇蹟的に数日生き延びて、さらに信仰を固くしてから召されていきました。
主は悔い改める者に憐れみ深いお方です。
どうぞ私たちの心がこのように主に結びつくものであって、福音を伝え聞きながら拒み続けている人たちの現状に対して憂いと怖れをもって祈り、福音を伝えさせていただきたい~そのようにして主に就くものでありたいと願わされます。
お祈りをいたしましょう
天の父なる神さま
先に福音を受けて救い主イエス様を信じ受け入れることが出来た、この幸いを深く感謝いたします。しかし主の福音を伝え聞き及びながらも心頑なにして、主の愛の御手を拒み続けている人たちのために祈ります。
最初に戴いた光のときと同様に彼らが心を開いて、そしてサタンの支配から永遠の神のみ救いに戻ってくることが出ることを
主イエスのお名前でお祈りいたします アーメン