「聖書が語る終わりの日とは」
「聖書が語る終わりの日とは」
イザヤ2:1-5*1
ご一緒にイザヤ書から、「終わりの日とは」というテーマで、イザヤ書2章に目を留めていきましょう。
新約聖書でも使徒ペテロやパウロが「今は終わりの時代」だと言っています。教会用語でイエスキリストが最初に天から来られたのが初臨(しょりん)で、世の終わりに再び来ることを、再臨(さいりん)と言います。
神の前に、千年は一日、一日は千年とあるので、イエスの初臨から2000年が経ちますが、それでも今が終わりの時代にあるという自覚を持つことは信仰者として大事な姿勢です。
「9:4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。」ヨハネ伝9章4節
口語訳
ヨハネの福音書を見ると、今は昼の時代で、まだ福音が語られるチャンスのある間にあります。でもその期間には限りがあって、終わりの日にそれ以上伝えることが出来なくなる時が来るという意味です。
2節に終わりの日になるとエルサレムがエベレストよりもヒマラヤよりも高くなるという預言のようですが、それはどうなのかは誰にもわからないのですが、確かなことは「主の家の山」はエルサレムのことで、キリスト教は2000年前エルサレムから始まりましたので、歴史の終末期になると地球規模のリバイバル運動が始まるということを預言しているのではないでしょうか。福音が世界的な霊的なリーダシップをとるようになることの預言です。
世界には様々な教えや宗教がありますが、混とんとした世界に自分たちを救うのは、イエスキリスト様しかないと言って、自分と神との関係、自分の魂の問題について真剣に考えるようになる日が来るのだということです。
多くの人が永遠の救いを求めて教会にやってくるようになる、そのことの預言だと思います。
唯一の神とのお出会い
3節に神が「ご自分の道」を私たちに教えてくださるとあることから、それまでいろいろなことで妨げられていた福音が、身近なものとなって、神が「遠い」存在だったのが、「神との平和」を求めて世界中の人たちが求めるようになる。
イエス様は「すべて疲れた人。重荷を負って疲れた人は私のもとに来なさい」と言われました。
イエスは、身なりをちゃんとしてから来なさい、とは言われなかったようです。守銭奴だったザアカイやマグダラのマリヤたちは、世間から炎上扱いされるような人たちでした。バッシングの対象でした。ザアカイもマグダラのマリヤも身も心もボロボロでイエスと出会ったのだと思います。
そして彼らは、その日からそうし続けました。
福音は偽善のおしえではありません
信仰をもったときも、信仰生活を始めたそのあとも、ずっと彼らはそうし続けたように、ありのままに教会生活を信仰生活を送ろうではありませんか。そこには共同体、教会での交わり、支えあい、ありのままに互いを受け入れ、受け止め、祈りあいが欠かせません。
霊的なリーダーシップ
それが聖書が教える霊的なリーダーシップです。戒律と裁きあう生き方でたくさんの人が学校、家庭、職場で苦しんでいるのですから、教会が魂のやすらぎとなることは必定(ひつじょう)です。
新島八重のお兄さんの山本覚馬が宣言したイザヤのみことばとは
山本覚馬_(1828-1892)
幕末~明治に、山本覚馬という人がいました。会津藩(福島県)の武士でした。しかしこの方は、戊辰戦争後に、宣教師から戴いた本を読んで、福音はこれからの日本に必要な教えだと確信して、妹の旦那さんでもあった同志社大学の創設者 新島襄の協力者となり、新島襄たちを支え続けました。「八重の桜」NHK大河ドラマがありましたね。
山本覚馬は最後視力を失うのですが、亡くなる前年の卒業式で、イザヤ書2:4のみ言葉を唱えたのです。
「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。」口語訳
戦争で日本人同士が切りあい、殺しあうという修羅場をくぐり、自身のふるさとも政府軍によって攻撃されて、悲惨な経験をしたからこそ、このイザヤ書のみ言葉が彼の心にしみたのではないでしょうか。
彼が卒業式でこのイザヤ書のみ言葉を語ったとき、講堂に満堂の拍手の渦が巻いたことは日本という国の史実で、これもNHKの大河ドラマでありました。
「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。」
長いこと日本の文化に慣れ親しみ、たくさんの素晴らしいことを学び続けた彼でしたが、最後に至って、この国に本当に必要なのは福音だということを彼は宣言したのです。
国連にあるイザヤのみことば。しかし‥‥
このイザヤ書の言葉がニューヨークの国連ビルのところにもあるそうですが、このことばの実現をいまだ世界は見ていません。おそらく人間が地球上に存在している限り、争いごとは無くならないと思います。
心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。エレミヤ書17:9 口語訳
人間には、平和を作る力はないのではないでしょうか。隣家の人とさえ笑顔でごあいさつをすることですら難しいのが現状です。
覚馬が悟ったことはそのことだったと思います。
本当に平和な幸せな、和合して人が暮らすために必要なことは福音を伝えること以外にはないのだということです。
さあ!というかけ声
この5節には口語訳その他の訳に「さあ」という呼びかけの言葉がついています。英語ではレッツ!ですね。「さあ」どこかへ行こう~とか、行動を促す言葉です。2700年の時空を超えて聖書は私たちに、行動を促しています。
それは、福音を宣べ伝える事です。
今は、昼間の時間だからです。
千年は一日で一日は千年ですが、しかしいつその終わりの時が来るのかはわからない。しかしその日が近いという事を多くの人たちは気づき始めているのではないか、と思います。
恥ずかしくないのか?
鍋谷堯爾さんという方が最後の5節を意訳されて、その中で、イザヤ書の壮大な未来図に、「恥ずかしく思わないのか」と、それはこれだけの責務が教会には終末の時にあることに気づくべきであると、歴史と世界の中での教会の責任は大きい、だから「私たちも主の光の中を歩もう」と書いています。(イザヤ書講解上)
教会と主を信じる人は、その平和の福音、神との平和、人と人との平和の知らせを宣べ伝える義務があるのですね。
K牧師のこと
先日、お知り合いの牧師さんがわざわざ訪ねて来てくれて、こんなお話をして下さいました。近頃、北海道に夫婦で移住されてこられた方がいて、奥さんはなんとかして旦那さんを永遠のいのちの救いにお導きしたいと長年、願われていたそうですが、果たして、この度、旦那さんは、新天地北海道で信仰を持たれたそうです。でも、その三日後に、なんと旦那さんは急死されたそうです。
K牧師さんは、「機会があれば、これからも語り続けたい。神の前で終わりの日に、責任を問われるときがくるからと仰っていました。」
ほんとだな、としみじみK牧師さんのお話に感心させられた次第でした。
大事な人たちの為に祈ることから始めましょう
たとえ今はその力は感じられなくても、まず、弱い祈りでも、まず祈りから始めて行きましょう。祈っていきましょう。~さんのために。~さんの救いのために。
終わりの日とは、福音がつたえられていく日のことを言っているのです。
お祈りをいたします
天の神様
イエス様を信じます。
私の罪のために イエス様が十字架に死なれ 三日目に甦られたことを信じます。
イエス様を心のお迎えいたします。
新しい永遠のいのちをお与えください。
この祈りをイエス様のお名前によってお祈りをいたします
アーメン