聖書のある暮らし

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「イザヤ書の意外性:イザヤが語った福音」

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旧約聖書 イザヤ書1:1~3.*1

 

今日から、少しづつ皆さんとご一緒にイザヤ書をも学んでいきたいと思います。

 終末の様相ーイザヤ書を学ぶ意味

温暖化が原因で異常気象続が続き、パンデミックや宇宙からの天体が地球をかすめるニュースをよく耳にするようになりました。世界的に終末への危機感が高まってきているように感じます。旧約聖書イザヤ書には終末論的な視点があります。いま、ともにイザヤ書を学ぶことは意味があると思います。

 

イザヤ書は私たち一人一人への神様からの恵みの書

今日のタイトルは「イザヤ書の意外性:イザヤが語った福音」ですが、イザヤが語った福音とはなんだったのでしょうか。

 イザヤはイエス様がお生まれになる遥か700年も前の人です(なので今から2700年前の人)。彼の語るメッセージは律法による裁きと、罪の赦しのメッセージです。

イザヤ書の中心

イザヤ書は全体的に鋭く、厳しい内容だが、そのメッセージは最終的には神様の一方的な恩寵に人が立ち返ることについてのものである。

 1節を読んでみましょう。
1:1アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。」

イザヤ書の宛先は、エルサレムです。

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 聖書が語るエルサレムは神の都で、そこは神が私たちに対して恵み深いお方であることの象徴的な地です。エルサレムは一介の羊飼いの少年だったダビデがのちに王となって、そのダビデによって確立された地でした。

その顛末を旧約聖書に読むと、聖書の神がどれほど人間に対して親切な存在なのかという事がわかります。キリスト教用語では「恩寵(おんちょう)」です。

このように、イザヤ書が「エルサレム」の宛先から始まっていることを見ると、この一見、厳しい書と思われるイザヤ書には、神の私たちに一人一人に対する優しさがあふれているということが見えてくるのです。

Ⅰ.裁きのメッセージ 1:2-17

 次の二つの聖書の言葉を見比べてみてください。

天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、

 イザヤ書1:2

天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。   申命記 32:1

下の申命記モーセの晩年のことばですが、上のイザヤのことばと酷似しています。時代的に古いモーセのセリフをイザヤが踏襲していたのです。

 そには常にふたつの道があります。

 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。申命記 30:19 

命の道かそれとも律法の呪いの道かのどちらかで中間はないというのです。

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人生の最後。清算のとき。

イザヤ書1章2節には「そむいた」(新改訳:逆らった)とあります。学校の先生、上司と部下、親と子。どういう間柄も、一度関係が損なわれてしまったら、どちらかが譲歩するのでなければ、関係の修復は難しいですね。

3節。牛でさえ飼い主と、ロバでさえ主人の飼い葉おけのことは知っている

 牛にしてもロバにしても頑固、といった印象ですが、イスラエルの愚かさはそれ以上だと言うのです。4節の「悪をなす」(新改訳:罪を犯す~嗜癖に陥る)は、「的を外す」という意味で、それはピントのはずれた人生を過ごすという意味です。また新改訳聖書などでは「咎」と訳されていて、それは生きる上での「ひずみ」「ゆがみ」のこと、つまり遠回りの人生のことを表しています。死を迎えるときに、清算の時を迎えます。これでよかったのだろうかと。または逆に、ああ、感謝だった、と。また、聖書は死後のさばきということをも語っています。

 

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 イザヤの召命

Ⅱ.罪の赦しのメッセージ 1:18-20.

 4節に「イスラエルの聖なる方(新改訳)」とありますが、これはイザヤが信じる神の呼び名です。これはほとんどイザヤ書固有の表現といえるそうです。

どうして固有なのかというと、その理由が実はイザヤの*召命にあります。イザヤ6章で彼は神から預言者になるようにとのお招きに与りました。そのとき彼は、その「聖なる方」を見たとあります。そして、天使が飛んできて燃えるモノを彼の口につけるという特殊な体験がありました。その出来事の意味は、その後のイザヤの生涯が神さまのご意志に捧げられていくという事を表しています。

 *召命*2

神さまのみ心を祈り求めて生きる

わたしたちは、だれかに親切にするとか、神さまのみ心を行っていくときに、幸せになれます。反対に利己的な恨めしい思いや下心をもって歩むなら、不幸になってしまいます。

とはいうものの~しかし、現実の自分を見ると偽善の罪(10-17)、不道徳と不義(21-31)、その他にもいろいろな嗜癖(聖書でいう罪と悪)があってなかなか自分が考えているようには毎日を過ごせないのが現実です。人の言った何気ない言葉に翻弄されて、落胆したり、自信を無くしたりしやすいです。

しかし原因は確かに人がいて、あの人さえいなければ、あんなこと言わなかったら~となるのですが、実はそういう扱い方では解決はありません。

原因は、簡単に人に心を閉ざしてしまいがちな自分にあります。その延長線上にあるのが神との関係の不一致で、その結果、愚かで中途半端な生き方に陥ってしまうのです。

このことを聖書は「罪」と呼んでいます。

 

寂しい生き方から豊かな生き方へ

8,9節を見てみましょう。

1:8シオンの娘はぶどう畑の仮小屋のように、
きゅうり畑の番小屋のように、
包囲された町のように、ただひとり残った。
1:9もし万軍の主が、
われわれに少しの生存者を残されなかったなら、
われわれはソドムのようになり、
またゴモラと同じようになったであろう。

これは、人から孤立して惨めな姿で佇む(たたずむ)人が助け出される~新しい積極的な生き方に転じることが出来るというメッセージとしてもとらえられます。

1:18主は言われる、
さあ、われわれは互に論じよう。
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、
雪のように白くなるのだ。
紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
    イザヤ1:18-20 口語訳

 「緋」とは、古代の染め物のことで、「悪」に染まることのたとえです。これは思いや行動が制御不能に陥る人のことのたとえです。

そして、白い雪や羊の毛のようにとは、そんな混乱した毎日から自由にされる道があるのだ、ということのたとえです。

自分を超えた大きな存在のお力にお頼りする

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聖書に、人が重い皮膚病で手の施しようのない症状に陥ることを、「全身が重い皮膚病で雪のように白くなったのでその人は『きよい』」と書かれてあるところがあります( 旧約聖書 出エジプト記 4:6 レビ記13:13 参照)

これは何を言っているのでしょうか。

 全身が重い皮膚病で手の打ちようのない状態になると、その患者は聖いというのですから、もうお手上げということですね。自分にも科学にもどうにもできないという事を言っているのです。

治ったかどうかはわかりませんが、ともかく、「きよく」なったというのですから、良いことに違いありません。そして、いいことには、そのことがわかってくると、その先に必ずもっと素晴らしいことが起こりだすという事です。

それは、今の自分の在り方や生活パターンが制御不能で、なんとかしようともがくことをやめる、そしてそのことを決心することです。

そうしていくとき、その人の生き方が変わるからです。

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弱いもの、失敗し落胆している人を励ましてくれる人

職員室に呼ばれた。さてどうしよう。なんぞ悪いことでもしたかしら?ある日、課長から「ちょっと」と言われた。ドキッとした。そんな経験はありませんか。

イザヤ書1:18に「さあ来たれ、論じ合おう」とあります。(新改訳聖書)何か怒られるのだろうか、と身構えていたら、もういいいよ、と赦してくれた。責められて当然、責任を問われて当然だと思っていた。「論じ合おう」というからには、自分がしてきたことの数々の不都合なことについての刈り取りのことを考えて、もうだめだろうなと緊張して、こころも体も縮みあがっていたのが、突然の赦しの宣言だったのです。

二つの大事なこと

Ⅰ.自分の問題行動を認めること。その振舞のために自分を苦しめ、相手を苦しめてきたことを認めること。

Ⅱ.全身、治る見込みのない病気(罪)に冒されていることを認めること。

この二つのことを認めることはとても大切なことです。

この二つがわかるようになる時、自分を超えた大きな存在者のお力に頼らざるを得なくなるからです。

 

Ⅲ.過去にとらわれないで、大きな存在:神に自分をおまかせする

イザヤ書という書が、実は、厳しいだけではなく、励ましに満ちていることを知ることが出来ました。しかし、わたしたちは、ともすると、過去のしがらみに生きてしまいがちです。こうなったのは自分が悪かったから、あんなことをした自分が悪いんだ、と。それは一見いいことのようですが、自分の力を過信していることなので助けにはなりません。

でもここに19節「喜んで聴こうとするなら」と書かれてあります。(新改訳聖書)また、1:1に戻ってみると、「幻を見た」ともありました。

それはどんな内容だったでしょうか。

聖書の神さまは、私たちを励ましてくださり、さまざまな不都合な問題行動や否定的な思考から健全な在り方へと回復させてくださるということでした。

「そうすれば、良いものを食べることが出来る」。 

一日を始めるとき、心の目を神さまに向けるとき、明るい視点が戻ってきます。そうする人の生活は必ず目的のある確信のあるものへと、聖霊のお力によって変えられていきます。

天変地異や死の恐怖をすら乗り越えていくことが出来るようになることでしょう。祝福をお祈り致します。

祈りをしましょう

天の父なる神さま。

気候の変動やコロナとの闘いがあったり、人に対する恐れがあり、ささいなことで思いが折れやすくあります。

でもイザヤの語る聖書の神は私を励まし強くして下さることを学びました。

私に対する神のみ心を教えてください。

どうぞ、握りしめていた手を放して、感謝をもってもう一度、歩き出させてください。

主イエス様の御名によって アーメン

*1:

イザヤ書

第1章

1:1アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。
1:2天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、
主が次のように語られたから、
「わたしは子を養い育てた、
しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3牛はその飼主を知り、
ろばはその主人のまぐさおけを知る。
しかしイスラエルは知らず、
わが民は悟らない」。

*2:キリスト教用語で神から預言者になるように招かれることを言う