ルカ12:54-59*1
※ レプタ銅貨。*2
コウゾリナ
イエス様は論敵に向かって「偽善者たち」と呼ばわりました。「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」と。
なぜ偽善者なのでしょうか
その理由は、ちょうどお天気の様子を見て、明日は雨になる、暑くなると判断できる。それなのに、どうしていま自分がおかれている時代のしるしを見分けようとしないのか、ということです。
先日のzawamekiのネットライブ放送で、タコマのT牧師がアメリカの事情をお話されていました。感染症の問題、アメリカで今起きているデモの背後に共産主義の台頭の懸念があることなどについてでした。
そして、コロナも含めて、社会現象の背景には人間的な力関係を超えた霊的な地殻変動があることを指摘されていました。
このような時代に、T牧師は、教会が神さまのみ心を祈り求めること、そして永遠の福音を宣べ伝える必要を強調されていました。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
エペソ6:12
つまらない毎日
昨日ニュースを見てて、年輩の女性が、インタビューに答えて、「今はどこにも行けなくて、つまらない」というようなことを話されていました。
当たり前の暮らしがコロナで奪われて、ある意味ショックでその反動からパーティーをして、逆に感染してしまうのでしょうか。
この時代に対する聖書からのメッセージ
聖書のルカによる福音書は世の終わりというテーマのもとに書かれています。58節は、世界が最後の審判に向かって進んでいるという終末論的な視点から読み解くべき箇所です。
また59節の最後のレプタを支払うまでとあるところも、世の終わりの時代の視座から見るとわかりやすくあります。「最後のレプタを支払うまで」とは、それを全部払えるように頑張りなさいという意味ではありません。
神と人への借財のいっさいは、人が負えるものではない
ローマ書の観点から言っても、そうですね。
では、どういうことなのでしょう。
レプタ銅貨、最後の一枚すら~という意味は、自分に与えられた最後の命を持ってしてさえも、支払いきれない罪と病気の重荷を神と人との前に償(つぐ)なったり、やり直したりすることはできない、ということです。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 第二コリント 5:10
しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 第二コリント 5:18
三つの和解
聖書はすべての人に神との和解、自分との和解、そして他者との和解を教えています。
Ⅰ.神との和解
最後のレプタさえも~(※レプタ~当時の貨幣の最小単位)
私たちは時々、悪いことを考えたり、怠惰だったりするとき、自分を責めます。でもこの自分を責めること自体が実は自分の我力で何とかしようとする人の思い上がりのしるしです。
自分の魂の贖いに、最後のレプタすら払えない自分であるということを知ったからこそ、ただただイエス様が十字架で流されたきよい贖罪の血にお頼りするしかなかったのではないでしょうか。
Ⅱ・自分との和解
私たちは、自分を受け入れることができなくて、ささいなことで自分を責めやすく、自分をゆるせない、自分を好きになれないなど悶々とすることがあります。しかし、レプタ一枚すら~という、自分が神の前にも人の前にも失われたもの(心の貧しい者)なのだという事がわかる時、また日ごとにそのことに気づかされていくとき、次第に、自分の内側に、確たる信頼を置こうとする努力をしなくなります。自分の内に信頼できない自分がいることがわかっても、あとは神様にお任せするので、すこしずつですが、自分のことでは悶々とはしなくなっていきます。
自分との和解とはなんでしょうか。
なぜイエスは十字架に至るまでそんなにも弱くならなければならなかったのか? 神の子のはずだったのに、そんな十字架について死なれるほどの恥ずかしい思いをしなくてはならなかったのか。
その理由は、主の十字架の弱さのゆえに、自分の「弱さ」を率直に十字架の主のゆえに認めていくということに他ならないのです。
私たちは、次第に自分の愚かさや、矛盾にとらわれなくなっていくでしょう。
Ⅲ.他者との和解
私達が、他の人に対する行き過ぎた責任から自由にされているということです。
どういうことでしょうか。
ちまたの人たちが、生まれつき盲目で生まれた男性のことを裁いて、悪いことをしたからだとか、先祖が悪かったからだとか言って「責任は当事者にある」といって責めました。しかしそんな考え方に対してイエスは言いました。ヨハネ9:1-7.*3
「この人が盲目に生まれついたのは、この人でも先祖のせいでもない。ただ神の栄光があらわれるためだ」と。
自分が最後のレプタさえも支払えないものでしかない、とあきらめたとき、安直には他人を責められないのだということがわかってきます。
そして、白い目で見るような人をも、敵として見るのではなく、神の手にお任せする以外にはない者として見ることができるようになります。
そして、自分の側の利己的な見方があったことは、神様の前に正直に認めることによって、それまでの囚われだった人に対する「しがらみ」から解放されていくようになります。
レプタさえも返済できない無力な自分であることをわきまえるとき、十字架に死に、甦られたイエスにお頼りする以外にはないことがわかることでしょう。
終末の時代に向かって生きる
聖書は、時代が終わりに向かって裁きの日に向かって進みつつあると宣言しています。では、私達はどのように生きていくべきなのでしょうか。
「最後の一レプタさえも最後の審判の日には間に合わない」。
しかし、主は、私達に主の十字架による、神との和解、自分と他者との和解を下さっています。
私達はどうでしょうか。
神はイエスの十字架によって、神と自分と他者との和解を下さっています。
福音の中に生かされ、また、その恵みが私達を通して他の人に及んでいくことをお祈り致しましょう。
お祈りします
天の父なる神さま。
時代はますます混迷化してきています。
どういきていけばいいのか。いつもの楽しみを、当たり前のようにすることもできず、国は国に、民族は民族に敵対し、自然荒れ狂い、どこに静かな確信と進むべき道があるのでしょうか。
神と自分と人との和解に私を活かしてください。
何があるとかないとか、目に見えることに左右されるだけの生き方ではなく、霊的な神のご意志の中に、永遠の小道をゆかせてください。
私たちの主イエスのゆえに、
このお祈りをお捧げいたします。
アーメン
*1:12:54イエスはまた群衆に対しても言われた、「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。 12:55それから南風が吹くと、暑つくなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。 12:56偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。 12:57また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。 12:58たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。 12:59わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。
*2:古代ギリシャで用いられていた通貨。最小単位の銅貨のこと。
*3:9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 9:4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 9:5わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 9:6イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 9:7「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。口語訳