聖書のある暮らし

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「圧倒的な勝利者」

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使徒パウロは「神がもし私たちの見方ならだれが敵対できるのか」と言っています。また続く節では「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」といっています。

今日は、この二つの節が語っていることとは何なのか~万物を与えて下さる~誰も敵対できない~これらのことについてご一緒に聖書を開きましょう。

 

 

  ローマ:31-39.*1

 

 

日常での軋轢(あつれき) 

時々、私たちは、家庭や職場やご近所で傷つくような体験をすることがあります。元気よくあいさつしたのにシカトされたとか、自分が期待したようには応えてはくれなかっただとか‥‥。多くの場合は、自分の側に原因があって、よく後から考えてみると相手の立場になって考えていなかった自分に原因があるものです。

しかし時にはこのあと出てくるのですが、信仰の道を進もうとするとき受ける苦難・迫害というのがあります。

そのことは、35節パウロが自分の体験から語っています。

それから38節、39節で「死も、いのちも‥‥そして高さも深さも」とありますがこの38,39の意味は、人の力の及ばない霊的な世界のことを言っているようです。「高さ」は天です*2。それから「深さ」は陰府の世界あるいは裁きのことです。

そういうスケールにおいての勝利が信じる者に与えられるということを言っているのです。そこから出てくる宣言は、31節の「神が味方ならだれが敵対できるか」ということと37節の「圧倒的な勝利者」となるわけです。

新約聖書のエペソの手紙2章にもあるように、信仰生活は、空中の権を持つ者との闘いで、福音をつたえていくという事は戦いとなります。

パウロの伝道旅行で受けた迫害の数々の体験が新約聖書第二コリント書というところに認(したた)められています。

私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。第二コリント 11:23‐28*3 

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 ここまでの苦難によくもパウロは耐えたものです。死んでもおかしくなかったくらいです。パウロは福音を伝えたがためにこのような苦難の数々に遭いました。なにも、家にいて安心して暮らしていればこんなことはなかったのですが、パウロの情熱は苦難を超えていました。

 

前後しましたが、33,34を読んでみましょう。

 8:33だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 8:34だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

 35節では、「キリストの愛から私たちを引き離すのだれか?」とあって、同じ表現が39節に出てきます。

「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。

どのような迫害も敵の攻撃も私たちを主のご愛から引き離すことはできないと言っているのです。

 

信仰者の基本姿勢

①あるがままに祈る

あなたは、どうやって救いを受けましたか?

ただあるがままの姿でキリストのもとに来たではありませんか。

もし、怒りの性質を持っているなら、同じことです。そのままで、キリストのもとに来なさい。

 朝ごとに夕ごとに CHスポルジョン

 キリストが私たちの罪という病を抱えているためにある人それぞれの弱さ、弱い性質のために父のみ前で執り成して下っているのだから、と。

②圧倒的な勝利者としての立場にのっとる

いったい何に対しての圧倒的な勝利者なのでしょうか? 

「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」という暗闇の勢力に対する圧倒的な勝利が与えられているので、キリストイエスに在る神のご愛から私たちは決して引き離されることはないということです。

神が万物をも信じる者に下さらないはずがあろうかとは、このことを言っているのです。「死」、「いのち」、「御使」、「権威ある者」、「今」、「後」、「力」、「高さ」、「深さ」

人の永遠の運命を決するような権威

「現在、将来、高い、低い」と言いますのは、決して時間と空間のことを言っているのではなくむしろ現在と将来の運命を決するようなもの、あるいは高い天、深い陰府、死後の運命を決するような力であります。

      榊原康夫 ローマ書講解

 人間の永遠を決めてしまうような力のこと。

私たちの戦いは暗闇との闘いです。

このように私たちの戦いは肉の者ではなく、一人の人を滅ぼそうとする闇の力との闘いで、主に従うことや、また福音を伝えることは、霊的な戦いなのだ、という事を教えているのです。

28:18エスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。マタイ28:18‐20

 今日のみ言葉には、御子イエスを下さったお方(父なる神さま)が、私たちに、すべてのものを下さった恵んでくださったというのですから、私たちは私たちの永遠の運命すらも決することのできる至高のお名前ナザレのイエスの御名を用いて、福音をつたえていくのです。

戦いがあっても必ず勝利

信仰者が目覚めてみことばに従っていこうとし始めると、空中の件を持つ敵サタンどもは攻撃を仕掛けてくるかもしれません。

たとえば主の御名をたたえて賛美の歌を歌おうととしたら、口内炎が口の中に出来たりとか‥‥。お祈りをしようとすると、あとでもいいような用事を思い出したりとか。いろいろありますね。

 すべてがサタンのせいではないと思います。

しかし、神の子が従おうとするとき、パウロが迫害を受けたように、福音を伝えるのをやめさせようとする妨害や困難が聖書にも書かれてあることは、私たちにも現実です。

 これらすべてのなかにあっても

しかし37節を見ると、「これらすべての中にあっても」とあるのです。

それはその最中、ということです。癒されることもあればそうでないこともあります。解決するときもあれば、そうはいかないこともあります。パウロにとって、迫害や困難は避けられなかったように、問題が起こるのを止められなかったように、私たちが福音を語るとき、サタンがいろいろと邪魔をしてくることを神はゆるされるのですね。

しかし、一つだけ確言出来ることは「圧倒的な勝利者」であるということですね。

クリスチャンが祈る時、賛美する時、霊的な地殻変動が起きて、たましいの救いが始まる。

 もういちど、イエスの御名を用いて、私たちが祈る時、主を賛美する時に、ちょうど、初代教会のときそうだったように、霊的な地殻変動が生じて、福音が伝えられていったんですね。

 主はどういう困難の中でもパウロを守られました。そして、主は私たちをもそのような最中にあっても圧倒的な勝利者として導いて下さるのです。

 目に見えない御国は確実に前進し始めるのです。

お祈りをいたしましょう。

ハレルヤ。天の父なる神さま。

独り子の御名、イエスキリストを下さりありがとうございます。

エスの御名によって祈ります。

そして尊い御名をあがめ賛美いたします。

御国が私たちの周囲に今日も明日も前進しますように。

尊いエスキリストのお名前によって祈ります

             アーメン

 

*1:

8:31それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 8:32ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 8:33だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 8:34だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 8:35だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36「わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている」
と書いてあるとおりである。 8:37しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 8:38わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 8:39高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。口語訳

 

*2:三つの天。成層圏・宇宙・霊の次元<聖書では第三の天といいます>

*3:

23彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。第二コリント 11:23‐28