聖書のある暮らし

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新しい生活

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「 新しい生活」

ローマ書6章1節~4節*1

皆さんいかがお過ごしでしょうか。

庭の家チャペルの牧師の伊藤です。

今日は、この箇所から、ご一緒に「新しい生活」というテーマでご一緒に学んでみたいと思います。

 

 

今日の聖書の箇所に「いのちにあって新しい歩み」をすると書かれています。

または、「新しい命に生きる」とも別の訳にはあります。

それはどういったものなのでしょうか。

また、そういう生き方があるとしたら、どうすればそのような生き方をしてくことができるのでしょうか。

 

信じるだけで救われるというが

聖書は私たちにだれでも、信じるだけで救われる、信じるだけで義なる者*2として認められると教えています。

 でも、ある疑問がここで生じてきます。

それは、ほんとうにそれだけいいのだろうか、信仰による救い*3には「行い」は必要じゃないというがそれは本当なのだろうか、と。

 そして、今日の箇所は、パウロがその疑問に答えています。

今日の聖書の1節のところです。

では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

 

 ~行いではなく、信じるだけで私たちは神さまの前に正しいものと見て頂けるようになるというのであれば、別に悪いことをしても良いじゃないか。」実際、当時、そんな批判がいろいろなところから出てきたのです。

それに対してパウロは、 こう反論しています。

2節、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

 

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できれば人を裏切ったり、悪い考えなんかは持ちたくない、と思うものです。できれば意地の悪い自分、いつも自分のことばかり考えるような私ではなく、もっと心の広い人、親切で、すぐ怒らない人になりたい。そう思うはずです。

でも、どんなにこころざしを高く持っても現実は難しいと思います。私たちの意志の力はそれほどには、強くありません。

 

では使徒パウロは、なぜ「断じてそんなことはありません」と言ったのでしょうか。

3節以降を見てみましょう。

 6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。新約聖書ローマ6:3,4.

英語の”into"のイメージ

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「キリストイエスにつく者」とありますが、この「つく」という言葉は英語で「イントゥー」です。「~の中へ」と言う前置詞です。目的の前に置く言葉です。

なのでここでは「キリストの中へ」ということになります。

3,4節には「与る」ということばもあるように、かつてはアダムにあって罪あるものだったのが、信仰をもってイエス様を信じて受け入れるとき、そしてそのことを洗礼によって言い表すとき、聖霊のお働きによって、人は労せずして、イエスの内にあるものとされる~キリストに与る者となったと言っているのです。

ちょうど、私たちが「しらない」ところで(まだ影も形もなかった私たちだった)、アダムが善悪の木の実に手を伸ばして食べたとき、アダムにあって、私たちは同じことをした者として数えられたのです。

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それがアダムにあって、という事でしたね。

同じように、私たちの「知らなかった」ところで、かつて神の御子は歴史の境目に(西暦)十字架に死に、甦られ、そののち甦られた。

キリストの内に起こった出来事は信じる私たちの内にも霊的な意味で再現されたのだ、ということでしたね。

だから、パウロが「断じてそういうことにはならない」と言ったのは、ただ私たちがイエス様のような人になりたいという願うからそうなるということなのではなく、むしろ私たちの力の及ばないところで、すでに神さまが備えて下さっていたということであって、それは、イエス様という恵みと義の賜物(人としての美しい生き方、うるわしい生き方を過ごされた)がすでに信仰によって信じる人のために備えられていたから、断じてもう古い生き方にもどることはしないということを言っているのです~ですから、その断じてそんなこと:もう嫌な古い生活には戻らないというその決意や熱心さは、主観的なものなのではく、むしろ客観的なところにあるのだ、ととらえることができます。

 

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主観と客観の間の悩み~葛藤の大切さ

信仰を持った人はキリストに与って罪に死んだというが、そんな気がしない。イエスにあずかって、よみがえったというが、そんな気がしない。悶々(もんもん)としてしまう。そんな疑問をお持ちになることはありませんか?

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 実際に、さまざまな誘惑や、世の風潮が襲ってきて、「~したい。してはいけない」という葛藤の中で、ついには押し流されてしまった。こんなことでいいのだろうか? 

「罪に対してなおも生きていられるだろうか」というが、本当のことを言うと、体に悪いと知りつつもお酒を浴びるほど飲みたい、なかなかタバコがやめられないとか~。

 

 でも、実はその「葛藤」が大切なのです。

どうしてなのでしょうか? 

そのジレンマこそは、私たちが自分を超えた大きな力の前に自分の弱さを認める時だからです。

ですから神は、私たちがそういう内面の戦いに直面することをお許しになるのです。そして、そのような葛藤がなければ、私たちは心を静めて、いまは、キリストの義に与るものとされているのだ、という事について考えることはないからです。

だらしない自分。甲斐性のない自分をどう思うか?

頭を抱えて、俺はダメ人間だぁ!と嘆いていますか?

こんなはずじゃなかった!と言って、自分や誰かを恨みますか?

むしろ、今日からは、そんなダメ人間の自分に気づいて、認めて、自分を笑えるようになりたいものです。「お前はいつまでそんなことやっているんだ。やっぱりだめだなぁ。」と。わたしって、いつまでたってもこんなもんなんです、と。

笑えるという事は、ありのままの自分を認めることに他なりません。

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しかもそれはすべての人が日ごとにすべき心の作業です。

 いや奇蹟を下さい! あなたは神だから一瞬にして私からこの悪い思いを取り除いて下さるはずです、と。そうやって断食したり、長時間祈ったりする。でも自転車操業みたいに、こぐのをやめたら途端にばたっと倒れてしまう。それが人間の作る宗教なのです。

神の救い、人を変える力は弱さの中に働く

 しかし、聖書は、私たちに、「私(神)の恵みはあなたに十分です」と語り掛けています。私の力は弱さの中に働くからです、と。あなたが、そんなふうになってしまうことくらい、ちゃんと前から知っていましたよ、と。

「でも、神さま~私は考えていることとやっていることが違うんです。考えていることもクリスチャンとはいえないものばかりなんです」と。

でも、そう祈る時、神様は私たちに、「いや、もう十分ですよ」とおっしゃってくださるのです。

たとえ今の自分がどうであれ、慌てずに、恐れずに、互いに自分の弱さ、非を認めて祈るのです。そのような祈りの交わりの中で、私たちを変える全能の神さまの力は動き始めるのです。

教会はみなさんのおいでを待っています。

 

お祈りをいたしましょう。

天の父なる神さま。

主観ではなく客観的なところにあった、つまりわたしの力の及ばないところに、すでに変革の力を備えて下さっていたことを知りました。

けれども、この自分でも思うに任せられない「私」のゆえにときどき辛い思いがいたします。今祈りたいのです。

ありのままに祈る時、自分を超えた大きなお力をお持ちの神 あなた様が私の思いと期待を超えて聖霊のお力によって、死すべきこの身を活かしてくださいますように。

この願いをイエス様のお名前を通してお祈りいたします。

            アーメン。

 

*1:6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 

*2:神の前に正しいものとみなされるという意味

*3:エスキリストの贖罪によって罪の赦しを受けて永遠の命に与ること