聖書のある暮らし

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自由に生きるために必要なこと

自由に生きるために必要なこと

先日の、選挙ではキャッチコピーのように「自由に生きちゃだめですか?」というのがありました。 今、ちまたでは、自由が叫ばれています。 「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。 (聖書)

教会は自由の御霊;聖霊さまのご支配があるところなので、他のどんな場所にもまさって自由のあるべきはずのところです。教会に行くと疲れたぁ、肩が凝ったぁということでは困ります。教会へ行くと、のびのびできる。心が落ち着く。それが教会です。どうしてかというと、教会こそは相手に対する自由が尊重されているはずのところだからです。 目には見えませんが、神は、私たちに対して何かを押し付けてくるようなことはなさらないと思います。たとえどんなに良いものであっても、押し付けるとき、自由さが失われてしまうからです。 たとえば、女性の靴のことが問題になっています。 男性社員には強要されないのに、その靴のせいで小指の先から血がにじむほどの窮屈さ痛みがあるそうで、踵何センチ以上の靴でなければならないなどという社内規定がある職場もあるといいます。 どうしてこれほどまでに、私たちは同じ人間同士でありながら相手に対して自由を奪うようなことをしてしまうのでしょうか。

ある社長さんの再登板の記事

先日の新聞に、一度退いたのに、業績悪化で再登板されたある社長さんのことが書かれていました。 この方は社員たちを前に、まずこう言ったそうです。 「私は80歳を過ぎて高齢のうえ、今の現場や住宅業界の状況もよくわからない。わたしはあなたたちに頼るしかないんです」と。地位も名誉もあるはずの方が、こどもや孫みたいな人たちを前に、簡単には言えないセリフだったと思います。合議制を取り入れ、拡大経営会議を立ち上げ、みんなが自由に意見を言えるような社風に、もう一度立ち返ることを試みた結果、会社の中には、のびのびとした空気が漲(みなぎ)りだして、業績はみるみる回復したのだそうです。

意思決定がトップからの押し付けではなく、底から上がってくるボトムアップに転じたと言うことですね。

これはとても大事なことだと思います。

エスの行動原理

「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(イエスの言葉) 「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」(イエスの言葉)

新約聖書に出てくるイエスほど自由に生きた人はいなかったと思います。なぜならイエスは利己的ではなく利他的な生き方をしたからです。そして、その自由さは、十字架に自らのいのちを捨てるほどの、死に至るほどのものでした。その生き方は束縛された、そして、ある人たちが誤解しているような窮屈きわまりない戒律的で損な役回りだけの、陳腐な世界ではなく、生き生きとした躍動感のあふれる生だったと推察することができます。

生きることの自由こそが信仰の世界です。

生き生きと自由に歩んでいくために必要なこと

①棚卸の必要

棚卸とは賞味期限、消費期限の切れた品を新しいものに換えることです。しかしもし棚卸を怠れば、確実に鮮度は落ちて売り上げは下がります。私たちも、もし、誰かに対する悪意とか敵意とか、ネガティブな感情をそのままにしておくてと、人間としての鮮度は落ちて行ってしまいます。不満な感情、不安感はどこからやってくるのでしょうか。それは誰かに対する怒りや憤り~つまり自分が拒絶されたかのような感情を放っておくことによるものです。

まず静かに座って、いったい自分の心のうちのどこが一番脅かされたのか? このイライラはどこからくるのか? プライドが傷ついたのか? 自分はダメだなぁ‥‥と。そこから憤慨や恨みといった感情が起こりだしているのか、、、自己吟味することから始まります。

②ではどのように棚卸をすればいいのか?

自動車事故を経験された方は、わかると思いますが、自動車同士がぶつかるときは、ほとんどの場合が、双方に落ち度があるということです。100%相手が悪いということは珍しいと言えるのではないでしょうか。そして、示談とか、交渉を通じて、或いは、保険会社が間に入って、折り合いをつけて解決します。 20対80とか、40対60とかです。人生の棚卸も同じです。 棚卸とは、自分の側の責任だけを扱えばいいことです。 私たちは神さまじゃないので、相手のことは、わたしたちにはどうすることもできない世界なんだということをわきまえようではありませんか。相手の性格を変えようとしたり、事態を変えることは、その人と神との間のこととして、お任せしてみてはどうでしょうか。 地球は回っているって、やつですね。

③自分のうちに古くなった利己的な思いを棚卸する。

この憤慨の感情はどこから来るのか~ただあの人がチヤホヤされているのが面白くなかった、不満だったからじゃないのか? 配慮のなさ~あの時の自分の一言はどうだったか?思いやりのない言い方だったのではないだろうか? ~自分がどう思われるだろうかとか~ 自分のことばかり考えていたから相手の言うことも分からず、また分かろうともしないでいたのではないだろうか。 ~余裕もないままでいた自分~ 相手を人形のようにしか見ていなかったのではないだろうか? 人の厚意に感謝もしないのに、ただ自分の言いたいことだけを言おうとしていたのではなかったか~そんな自作自演、観客ゼロの芝居小屋のような人生は寂しいです。

④自分を超えた大きな存在に祈る。

ここまでやってみると、「なあんだ、そんなことだったのか。アホらしい(笑い)」となってきませんか。下手なシナリオライターもどきのことをしていた自分にうっすらと気が付き始めましたか?

祈ってみてくださいね。たとえ信仰を持っていない人でも。洗礼を受けていなくても、教会に通っていなくても。

一日を振り返って祈ってみます。

うらみがましく、自分勝手、不正直ではなかったか。

新しい一日のために朝、祈ります。

自分の考えの中に目に見えない存在からの導きがあることを求めて。自己憐憫、不正直、利己主義から思考が切り離されることを求めて。

日中、動揺、疑問にぶつかるとき、立ち止まって祈ってみます。

正しい考え方と行動を大きな存在が示してくださることを祈る。たとえ自分の人生でも、自分一人だけで自分の一日を取り仕切っているのではないことを謙虚に覚えて。 一日の中で神さまのみ心が行われることを求めて祈る。 不必要な興奮、恐れ、怒り、心配、自己れんびん、愚かな決断から守られることを求めて。