聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「愛の実践~イエスが王であるために」 

f:id:seishonoarukurashi:20210519121433j:plain

 今日の箇所は、一言でいうと、「兄弟愛」という神様からのご愛についての箇所で、また愛の具体的な実践についての箇所です。 

そして、最も大切なことは、イエスを主としてあがめていくということです。 

今日は、そのことについてご一緒に学びたいと思います。 

 新約聖書ローマ12:1016 *1

 神の愛がある

よく仏さんみたいな人といいますけど、生まれながら親切な人はいても私たち人間は本質的に身勝手なものです。 ささいなことで、利己的な自分に気づくとき、嫌気がさすということはないでしょうか。聖書はそれを罪と呼びます。本当の解決はイエス様を信じること以外にはありません。 

こんなわたしたちに、いったい、どのような愛の実践ができるのでしょうか。

 10節に兄弟愛とありますが、神様は、すべての人を愛しておられます。これが第一の前提条件です。 たとえ私たちが愛せなくでもです。 

ここに、口語訳で「進んで」という言葉ありますが、進んで相手に善を行うこと、愛の行いや、考え方とは、「先手必勝」ということです。 

 

先手必勝の愛

f:id:seishonoarukurashi:20210518115708p:plain

KBI(関西聖書学院)の元校長だった高橋昭一先生は、 いま93歳でいらっしゃいます。その、高橋先生が、まだお若いころ、肋膜炎で入院されていた時、同じ病棟に~厄介な人がいたそうです。同じ病棟の患者たちによく喧嘩を吹っかけてくるのです。その人は高橋先生のところにもやってきて、口喧嘩がはじまりました。 高橋先生は温厚な方ですが、我を忘れてカッとなってしまったそうです。 反対に当の本人は平然としている。先生はますます腹がたちました。ところがまだその時、高橋先生はクリスチャンではなかったのですが、欧米の文学をたしなまれていて、その本とヒントに、たとえ口喧嘩には勝てなくても、勝つ方法がある。それは先手必勝で、こちらから先に、さっきは悪かった、と言って謝りに行くことだ。でも、どうして?ましてや自分は年上だし、相手が悪いのに?!しかしここは何としても謝りにいかねば。しかし彼の病室に行くのは大変でした。足がなかなか前に出ない。思い切って前へ前へと進むその時でした。なぜなのか、十字架にかかったキリストの姿を見たのだそうです。まだクリスチャンになる前の出来事でした。 

なんとか彼の個室につきました。そして謝罪を始めると、彼は、びっくりした顔をして、でもよろこんでくれて、高橋先生に彼のコレクションでもあるたくさんの本を見せてくれたそうです。その中には、なんと内村鑑三のロマ書の講解もあったそうです。おかしなことに、彼もまたクリスチャンではなかったそうですが、その彼が高橋先生にこう言ったというのです。「あなたはクリスチャンになるよ。」 

これは、先手必勝の好例ですね。 

 この「進んで」と訳されているギリシャ語には「先に相手を立てる」という意味があるそうです。 相手が自分を重んじて立ててくるなら譲歩してあげてもいいですよとか、そういうことではなく、相手を尊敬することにおいて先手を打つ、ということなんです。 

これは生まれながらの私たちには、難しいことです。不可能に近い、いや不可能ですね。 

 

アダムとイブが善と悪を知る木の実を食べた理由

11,12節は先週少し触れましたが、13節~15節にいろいろと指示があります。 

「聖徒の必要を満たし、旅人をもてなす~。」 エルサレムの教会の人たちは貧しくありました。彼らを援助する運動(献金)をパウロは異邦人教会の間で導きました。

聖書にはコイノニアという言葉があって、それは「交流」「共有」「参加する」「ともに与る」という意味です。捧げたり、また心配になって陰で執り成し祈ったりする。 

それが聖霊の交わりに与る、教会の交わりに与っていくということです。 

そして、この13~15節のことは、16節の「一つ心」になるということと、「自分こそ知者だなどと思ってはいけない」というところに結びついています。 

  

ここに一つ心であること。そして低いところに順応しなさい、という勧めがあります。どいううことなのでしょうか。逆を言えば、「一つ心でないこと、また低いところに順応しない」ということは何かを考えてみるとわかります。 

それは、自分はだれかから教えられたり導かれたりする必要などはないとする心の姿勢のことです。 そして、実はこれが神様に対する生まれながらの私たちの性質でもあります。 

f:id:seishonoarukurashi:20210518130623j:plain
アダムとイブが善悪の実を食べた理由は、神にようになれるというものでした。

つまりそれは自分が神なのでほかには必要ないという思想で、この世の文化の源流がそこにあります。その極地は共産主義です。その恐ろしさはウィグル問題を見ればわかります。ですから唯一の神様のことを話すと人は顔を曇らすのです。 

しかし、現実には、多くの人が、本当は自分の人生でありながら自分でコントロールできないでいるということを知っているのです。勇気を出して、そのことを認める人は人生の勝利者になれるでしょう。

次のように認めてお祈りしてみましょう。  

神様、私は自分の性質に嫌気がさしています。なぜささいなことで怒ったり、恨んだりするのでしょうか。なぜすぐに自分の殻に閉籠ったり、被害者意識にさいなまれるのでしょうか? 私は生きることに行き詰っています。 

私は、自分が聖書でいう罪と病の下にあることを認めます。自分で自分の毎日をコントロールすることが本当はできないでいるのです。船に例えるなら私は制御不能の状態にあります。

 原因の本質は、自分の人生なのだから、自分の好きなようにする、いったいそのどこが悪いのか?という態度です。私たちは、長いこと自分が神であろうとし続けてきたのです。そして、その結果は、身勝手な生き方であり、破壊的な生き方です。

私たちは、そのような生き方を、手放す必要があります。 

そして、その向こうに聖書でいう救いがあり、クリスチャンであれば聖霊に満たされていく祝福された生活があります。

 

自分の行き詰まりを認めて、祈りましょう

3:5心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
3:6すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7自分を見て賢いと思ってはならない、
主を恐れて、悪を離れよ。
3:8そうすれば、あなたの身を健やかにし、
あなたの骨に元気を与える。 
箴言 3:5~7 

 

 ポイントは、

①自分が神ではないということを認める。

②自分は救われなければならない、変えられなければならない者であることを認める。

 

自分が一番で何でも知っているという自分に依存する心の病を認めます。 

あなたのみ心に自分を明け渡しますと祈ってください。 

自分のしたいようにするというこの罪の性質を日々、十字架に付けていけますように。 

そう祈りましょう。 

 

人との関わりの中で

自分が知者だと神と人との前に思っているなら、兄弟愛~人を自分より優っているとは思えません。しかし日々、自分が知者ではなく、逆に、自分と日々向き合って、神様の前に自分の醜さ、至らなさを認めるなら、私たちは、コイノニアとあったように、ちょうど、人の体の各器官がそうであるように、へりくだって、互いの違いを認め、支えあうことをするように変えられていきます。自分の意見が一番だという思いではなく、ほかの人の意見に耳を傾けて、「そうだな。自分は~と考えていたけど、そういう考えもあるね」と譲歩することができるようになります。

ご一緒に お祈りをいたしましょう

父なる神さま

私は身勝手という生まれながらにして破壊的な考え方の中を歩き続けてきました。しかし自分の人生がお手上げ状態で、自分でもどうしてよいのかわかりません。イエスキリスト様が、そんな私の心の病を背負ってくださって、十字架の上で償いを果たしてくださったことを信じ受け入れます。イエス様が十字架で流してくださった贖いの血潮によって私を救い、新しい永遠のいのちに歩ませてください。

 イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

f:id:seishonoarukurashi:20201216122008j:plain

 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

 

*1:12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 12:11熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、 12:12望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。 12:14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。 12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。