十字架と永遠への備え
2019/06/09.sun. 聖日礼拝のメッセージから ルカ23:26-31「十字架と永遠への備え」
今日は、ここに二人の人が出てきます。 一人は、主の十字架を負ったクレネ人シモン。 もう一人は、複数で数人いたと思われますが、イエスの為に泣いた女たちのことです。シモン自身このあとクリスチャンになられたか、あるいはこの時のことがきっかけで、彼は信仰を持たなかったとしても、少なくても、彼のその二人の子供が自分の父親が助けたイエスの十字架の意味を悟って、その後、信仰を持つようになったことは間違いなかったようです。
【参照】 「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。」 マルコ 15:21 主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。 ローマ 16:13
とんだことになったなあ
しかし、そのときは、彼らの父親だったシモンはまだ、そのイエスのヴィア・ドロローサ(苦しみの道)にいったいどんな意味があるのか、わからないで、ただ、困ったことになったなあと思いながら、イエスが重い十字架を運ぶのを、うしろから手伝っていたと思います。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 ルカ 14:27
シモンはその日、過ぎ越しの祭りで田舎からできてきたのか~でも、この困った状況~なんでこんなことになったのか~良くはわからないが、兎に角この人は悪いことをしたらしい~そして、その当時の誰もが十字架刑と言えば、口をつぐんでしまうような、辱めの極みの刑で、自分はなにも悪いことなんかしていないのに、どうして自分がこの人と一緒に、さらし者にならないといけないのか。
神を呪いたくなるような、だれかを恨みたくなるような出来事。
でも、それが十字架を負うということだった。
十字架を負うということは、自分の弱さ醜さ、恨みっぽさ、怒りやすさ、悪いことを考える自分、そんな、ひそかに嫌いな自分自身に甘んじるということなんですね。そんないやな自分が自分であるということを認めるということなんですね。そして、実は、そのときシモンじゃなくて、主イエスがシモンの十字架を負って下さっていたんじゃないでしょうか。
「重いでしょう。助けてあげますね。一人では無理ですから。いや、あなたには永遠にその重荷を負うことはできません。私は、あなたの弱さ、あなたの至らなさ、あなたの醜さを負うためにこうしているのです。一緒に負いましょう。」
イエスは、そう言って下さっていたのではないか。
そして、私たちにもそう言ってくださっているのではないでしょうか。
主は、十字架を負うのは私。あなたはらくちんではなく。
一緒にその重荷を負っていきましょうと。
主が終われた十字架とは、私たちの弱さなのです。
そして、私たちは、このところから、主イエスよ、いっしょに負いましょう。
私の愚かさを、足りなさを、弱さを、恥を。
二つ目は、イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れです。
この「嘆き悲しむ」というギリシャ語には、「胸を打ちたたく」、「大声で泣きわめく」いう意味があるようで、この女の人たちは、かならずしも本当に悲しんでいたんじゃなくて、他の福音書のなかにも、ラザロのときに、そういった人たちが出てきますが、そういった職業としてそうしていた人たちだったのかもしれない。当時の彼らの文化の間では、そうした人たちがいたんですね。
だとすると、これは、まだイエスが死なれてもいないのに、死んだことにして嘆き悲しませたという一種の嫌がらせというか、ユダヤ人指導者たちのしたイジメだった、という見方があります。
一方では、別な先生の見方では、その逆で、どんなときにも、必ず、一緒に泣いて励ましてくれる人がいるものだ、と解釈する方もいます。
もちろん、このとき、イエスとともに、悲しんで泣いた人も群衆の中にはいたと思います。
そして、もし、この泣いている女の人たちが、そんな職業的な女の人たちだったとして、読むと、なぜ、主が、ここでそういわれたのかが分かるのではないでしょうか。それは、逆に皮肉に対して皮肉で返したとみる人もいますが‥‥
ルカ 23:28-31「イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 23:29『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。 23:30そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。 23:31もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。
英国のFBマイヤーはこう言っています。
燃える神の火の恐ろしい熱で焼き尽くされる、森の中の若い生木であったが、その女やその子どもたちは、その町が滅びるやたちまちパチパチと音を立ててもえてしまう枯れ木であった。 FBマイヤー
生木は、焼けにくいが、枯れ木は勢い良く燃える。
生木=イエスのこの時からおよそ30年後に、エルサレムがローマの攻撃を受けて、滅ぼされた。そのやられ方は、凄惨きわまるものだったそうです。
しかし、やがて福音が全世界に宣べ伝えられて、世の終わりが来る時。
つまり、枯れ木の時。そのときの裁きの日を思って嘆きなさい。
主は、指導者たちに雇われて、何も知らずに泣いていた方々にそう言って警告をお与になったのです。
つまり裁きの日が来るのだから、そっちのほうをむしろ悲しむように、つまり、そのための備えをしておきなさいという意味だと思いますが、いかがでしょうか。
先日亡くなられたKさんのこと
今日、わたしたちは遺骨になったKさんの箱を前にして、礼拝をお捧げしています。Kさんの死亡診断書を見ると、老衰と書かれてありました。4月に100歳になったばかりだったんです。100歳まで生きれるかなあ、もうそんなに生きたくないと言ってましたが‥‥。大往生でした。
自分の死について考え、備えをする
しかし、今回も、Kさんの死に思ったのですが~まもなく、自分も、住み慣れた家族や家や一切に別れを告げなければならない時が来る。その備えはできているのだろうか。突然、その日がやってきて、慌てふためくことにならないか?
むしろ「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」→そのためを思って泣きなさいとは、備えをしなさいということだと思います。
では、そのために、私たちはどのように備えをすればいいのでしょうか。
先日も結婚式に行って、ソロモンの格言から、三つよりの糸について話したのですが、神の愛があるから生きていける、と。すると真剣にみんな聞いてくださるんですね。中島みゆきさんの「糸」という歌があって、それにたとえて話すと、深ーくうなずくんです。♪「縦の糸はあなた。横の糸は私」。でも、それだけでは足りない。神の愛があるときに、その家庭は祝される、と。
なんのために自分は生きているんだ?それは、神の愛で誰かを愛するため。
仕えるために、捧げるためにいるのだ、と。
誰も自分の為によくしてくれないじゃなくて、わたしがそうしてみたい、とする。
愛されたいではなく、私が愛することを学びたい。そうして生きてみる。
それが永遠の住まいへの備えなんじゃないかと思うんです。
私たちに出来ることは何?
その女のひとたちは、葬儀で泣くことを仕事としていましたが、どうしでしょうか~私たちは、今週、帰ってから職場の人。学校の人。家の人。近隣の人に対して、行って、神の愛で愛することを学んでみてはと思います。
なぜなら、その日、イエスはいやいやながら十字架を背負っていたのではなく、自ら、積極的に十字架を背負っておられたのです。
誰も私を助けないのか?じゃなく、自ら、積極的に十字架を負われたのです。