聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

祈られたように私も誰かの為に祈りたい

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祈ってもらったように私も誰かの為に祈れれば‥‥。

人によくしてもらえた。うれしい記憶です。親切にしてもらえた。いいですね。ではそのあとどうしましょうか。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。                     (聖書のことば)

エスは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのです。こんな祈りを果たして私たちなどができるでしょうか。

私たちはすぐに腹を立てやすくあります。そうするのが当然であるかのようにです。

こんなにしてやっているのに。どうしてわからないの?とか。 とつぜん、そんな思いがわいてるようなことはないでしょうか。

どうして、自分のことを分かってくれないのだ、とか。 努力したのに、相手にしてくれないとか。

がんばってやったというのに。みんな私のこと無視して‥‥。

そのうち、心の内側から、不満や、怒りや、恐れや、恨みといった感情がわいてき始める。孤独感や、孤立感、裏切られたという満たされない感情。

でも、後になってよく考えてみると、そう考える自分とはいったい何者?

自分のことを一体何だと思っているのか?いつも、いつも、みんなが自分にいい顔をしてくれないといけないのか。いつのまにか世界の中心に自分がいたんですね。

いつのまにか、自分を囲む、周囲にいる人たちに向かって、まるで自分が王さまでもあるかのような思いを持ち始めている自分がいる。

悲しいモルモット~どこへいくのでもない毎日毎日 車輪を回している

いつもお話しますが、それだと、自作自演の観客は誰もいない独り芝居を演じているみたいなことをしていたんですね。

この世に、みんなが自分にいい顔をしなければいけないという法律でもあるんでしょうか。みんなだって、自分の為に生きているんです。

みんなが自分を優先にしてくれないといけないという決まりでもあったのでしょうか。

しかし、さきほどの救いを受けた人の証しのように、まずイエス様が来てくれて、救いの手を差し伸べてくれていた、ということ。

どうして主が貧しくならなければならなかったのか。どうして神なのに人にならなければならなかったのか。

主がおいでになったのは、十字架の上でこの祈りをささげるためだった。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」。

わたしもそう祈る者になりたい

そして今日、私たちは、私の周りに心の渇いている人がいるのでしょうか。

であれば、主がそうされたように、私も、その人の救いのためにそうしてあげたい。

でも私は利己的なものです。身勝手なものです。主よ、お助け下さい。

聖霊の愛によって、私をお助け下さい。

主の愛で愛するものとして下さい。

あの、キャサリンさんほどの賜物はないかもしれない。でも、私にあるものは何ですか。どうか、主がそうしてくださったように、私もやってみたいのです。

隣人を愛することを。行って、すでにある、主が備えて下さっている、救いの知らせを、お伝えすることを。祈りましょう。

                 2019.6.16.sun. 礼拝メッセージから

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