「信仰による希望」
この待降節第三週は、ハバクク書から、神が私たちに与える信仰による希望ということをご一緒に学びましょう。
希望を持つことの大切さ
先日の新聞にある県人会の記事のことが載っていました。
N会という東京でのあつまりで、同郷の人ばかりではなく、仕事関係や人間関係でつながっている人同士~
やや高齢の方が多い道産子たちのサークルです。
その記事の中で「これからみんなで、なにか新しいことをやろうじゃないか」と気炎を挙げているところが掲載されていました。
希望を持ち続けることは素晴しいことです。
イエスキリストがベツレヘムにご降誕されたとき、天の軍勢ががやってきて、主のご降誕を祝って賛美したことが聖書に書かれています。
それは羊飼いたちが夜番をしながら羊たちを見守っていた真夜中でしたが、その天使らの軍勢の賛美のために主の栄光があたりを照らしたとあります。
クリスマスは、万人に希望を与えるために神がこの世においで下さった希望の日です。
希望とは何か
人は神の形をした空洞が心の中にあるので、イエス様が心の中にお入り下さらない限り、信仰を戴いて、罪の赦しを戴いて、子羊の命の書に名前が記されて、神の子とならない限り、本当の希望をもつことはできません。
ほんとうの希望は信仰から生じるものだからです。
ハバククは、先日開いたミカ書のミカより、少し後の人ですが、やはり紀元前600年代に生きていた人です。
時代は、アッシリアがバビロンによって倒れ、まもなくエルサレムも陥落しようとする時のことです。
主のお言葉を預かって人々にお伝えする預言者という務めに与っていたハバククには大きな疑問が一つありました。
自分たちイスラエルが懲らしめを受けるのは、わかる。自分らはそのような悪いことをたくさんしてきたのだから。
しかし、ハバククがどうしてもわからなかったことは、神様はどうして自分たちよりももっと悪いほかの国を用いて、自分たちにお仕置きを下さるのですか?
私らを懲らしめられるのですか?というものでした。
ちょうど、兄弟げんかをして、親から怒られて、自分よりもお兄ちゃんのほうが悪いのに、なんで僕までが怒られるのか? それと、似ていますね。
2:1でハバククは率直に、神様に、そんな自分の疑問を投げかけて、答えを待ち望んだのです。
それに対してあった神様からのお答えが、2章4節。
2:4見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし義人はその信仰によって生きる。
「魂の正しくないもの」のところは、新改訳聖書では「うぬぼれ」と訳されてあります~これは、神を自分の力として頼ろうとせず、生まれながらの自分の力で何とかしようとする人のことです。
そのような人本主義的な生き方の最後はどうなるか、が次のバビロンへの裁きについての答えでした。
それは、6節、9節、12節、そして15節に詳しく書かれてあります。
6節~バビロンの貪欲の罪。
9節~悪いことをして富を築いたものへの裁き。
12節~暴力的なことをして、たとえいい思いをすることが出来ても、最後は神の裁きで終わるということ。
15節~人を辱め、自然界や、植物や動物にまで残忍なことをしたことについても必ず裁かれるということ。
神様は、悪い国を用いて懲らしめられるが、時が来れば、必ず、公平に裁きを下すと言われたのです。
信仰とは先のものを見る能力
ハバククが、「見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張った」~ハバククは祈ることを通して、神と交わって、神様の御心を求めたときのことを言っています。
そのとき、与えられたのが、この4節の「正しい人は信仰によって生きる」というメッセージだったのです。
うぬぼれていたバビロンの国の人たちのように、自分たちの理性や判断力で進もうとするのではなく、神が与えて下さる信仰の目をもって、その先のことを見ていこう、期待しよう、待ち望んでいこうとする心の姿勢が大切なのだ。
イエス様を信じる者は、ハバククがそうだったように、今ある自分の目で見ているところだけで判断したり、振舞ったりするのではなく、信仰によって進んでいきます。
神様は、必ず裁きをつけるお方。
ハバククはまだその裁きを目にはしていませんでした。
しかし、神様は、直ぐ裁かないからと言って諦めてはならなかったのです。
信仰とは何か
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 ヘブル 11:1
信仰とは先にあるまだ目にしていないものを、あたかも既にあるかのようにみる能力のことです。
この聖句を引用して新約聖書ではパウロがローマ書などで信仰について詳しく説明しているところがあります。
8:24わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 8:25もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。ローマ 8:24,25
すでに見えるものについては信仰とは言わないですね。
信仰とはまだ見ていないものをあたかも既に見えるかのように受け止めることを言います。
見張り所=祈りの部屋で、ハバククの疑問や不快な闇はその時、希望に変わりました。
彼は、そののち、まだまだずっと先の現実のことを、確かな事実として、神の約束として、信仰によって受け取ったのです。
私たちはどうあるべきか。どう生きるべきか。
サタンはもう間もなく捕まえられて、底知れぬところに千年間閉じ込められることになっています。しかし、まだ少しの間自由に空中の権を司る者として活動が許されています。
そして、万人の思いの中に、落胆する思いや、やる気のない姿勢や、ダメ人間、だめだオレは的な思いを入れてきます。
時々、なにかの拍子に急にイライラした思いに変わるようなことはありませんか。そうなるとあれもこれもすべてのことが否定的に見えてきて、イライラし始めたり、失望してしまいます。これはサタンの働きです。
祈りは状況を変える。みことばは思考を変える。
しかし私たちが信じて祈っていくなら、状況は変わります。
なぜなら天の父なる神さまは、私たち一人一人を大切な神の子どもとして、扱ってくださるからです。
あるいは、み言葉を唱えるとき状況は変わります。雰囲気は変わります。
このように信仰(=まだ見ぬ先のことを受け取る能力)は私たちを望むような人間へと変えるのです。
なぜ私たちは神の子であるのに消極的だったり、疑い深くありがちなのでしょうか。それは、信仰によって歩んでいないからです。
「信仰がなくては神に喜ばれることはありません。」とありました。
それは、信仰があれば、先の物事や、期待することどもを、既に与えられて、手中に収めているかのように、変化するからなのです。
思い浮かべましょう、よいことを
もし心に憂鬱があるなら、その憂鬱にしている問題や課題が解決しているさまを心の中で思い浮かべましょう。病であれば癒されて元気になっている様子を心の目で見ようではありませんか。
神様の前に私たちが聖くされたのはいつだったのでしょうか。
善い行いが出来た時でしょうか。
ああ、最近は腹も立ててないし、クリスチャンらしい生活が出来ているし、、でもいつもそうであれるとは限りません。些細なことで悩んだり、くよくよして見たり、最近聖書読めてない。罪悪意識をもってみたりしますよ。
聖くされたときは、イエス様がカルバリーで一切の罪の問題を解決して下さったときでしたね。
では、否定的な考えがあっても、まけないで信仰をもって祈れば、霊で祈る時、異言で祈るとき、自分がイエス様の血で救われて清められたものであることが分かり始めるのです。
それは世と世に流布されている、肉・世・サタンの情報に流されないで、信仰で進み始めたからなのです。
信仰とは見えないものとあたかもあるかのように熱心に神に求めるものです。
信仰による義人とはこのハバククのように、見える状況はそうでないかのように見えても、一切の資源を、供給を天の父なる神さまから引き出す人のことを言います。
信仰によって私たちは、なりたいと望んでいる人になります。
耳が造られた創造的な癒しの証し
アルゼンチン・リバイバルの歴史 トミー・ヒックス(左) 1950年代
オマール・キャブレラという人のお証だと思いますが、耳が生まれつきない男の子がいて、その子の母親が祈って下さいと言って連れてきた。キャブレラ牧師は祈りながらその子の頭に神さまが耳を作って下さる様子を思い浮かべたそうです。見ると、頭に小さなコブが出来ました。
なんだろうこれは?最初そう思ったそうですが、余り気にはしなかったそうです。
ただただ一生懸命祈って上げました。
再び、祈ってもらうためにその子がやってきて、そのときも耳が出来る様子を思い浮かべながら祈りました。
そして毎朝「~ちゃんの耳はとてもかわいいね」と、耳が出来たかのように撫でてあげるようにお母さんに教えました。
それからまたしばらくして、同じように耳があるかのように祈って目を開けると、その小さかったコブが、うちわの様に開いたというのです!
これは創造的奇蹟です。他の宗教では真似はできないことでしょう。なぜならイエスキリストは天地を造られた唯一の神であられるからです。
唯一の神は、無から有を生じさせることが出来るお方だからですね。
祈りは聖霊様と親しくなる時間
祈りは聖霊様との交わりです。
祈りの中で信仰によって思い描いて、想像するとき、思い描いた絵のようになるというのです。みなさんはどんな絵を描いていますか?
奇蹟とは人に手によらない働きのことを言います。
天地を造られた神様は、何もないところからすべてをお造りになったことを思い出しましょう。
お前はダメ。お前は失敗する。お前は汚れたやつだ。お前は敗北者だ。お前は人気がない。
お前にはなにもないではないか?
そうではありません。
私は神様に愛されて、希望のある、将来のある人間なのです。
私は目的があり、計画がある人間です。
もう一度2:18から20節までのところを読んで終わりましょう。
偶像とは何でしょう。
それは情欲のことを言います。
しかし、必要がそこにあるのならば、それは当然、天の父なる神さまが、子供たちのためのお与えくださろうとしているものであると信じます。
我欲のために祈るではありませんね。
神様の栄光のために祈りましょう。
心の中に様々な葛藤があって、戦いがあるかもしれません。
しかし20節。
「だが、主は、その聖なる宮におられるのだ。全地はその御前に静まれ。」
祈りは聖霊様との交わりです。
祈りの中で、見たことは、すでに実現したこととして、お祈り下さい。
そして、信じる者にはできるのだということを、神はおられるのだということを証明していくお互いであることを、イエス様のお名前によって祝福してお祈りいたします。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:2:18刻める像、鋳像および偽りを教える者は、
その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。
その作者が物言わぬ偶像を造って、
その造ったものに頼んでみても、
なんの益があろうか。
2:19わざわいなるかな、
木に向かって、さめよと言い、
物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。
これは黙示を与え得ようか。
見よ、これは金銀をきせたもので、
その中には命の息は少しもない。
2:20しかし、主はその聖なる宮にいます、
全地はそのみ前に沈黙せよ。