聖書のある暮らし

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「新しい油注ぎ」

みなさんこんにちは。

釧路リバイバルキリスト教会 庭の家チャペルの伊藤と申します。

今回は、「新しい油注ぎ」という題でご一緒にみ言葉を学びましょう。

Ⅰサムエル24:1-7*1

油注ぎとは

今回の個所は、ダビデが自分の命を狙う敵サウルに、手を下さなかったというところです。
またとないチャンスでした。

一刀両断のもとに、一気に問題を解決することが出来たかもしれないチャンスでした。しかしサウルはかつてサムエルから王となる油注ぎを受けた人だから、ダビデは手を下さなかったのです。

見ていた人たちは大変歯がゆく思ったことでしょう。
しかし、それは、後に王国を導いていくダビデにとって、非常に大切な瞬間でもありました。
油注ぎとは、神様が与えて下さる力・権威のことを言います。それは聖霊さまのお力のことです。

私たち主を信じるお互いも、信仰を持つと聖霊さまが内にお住まいになります。

それを油注ぎと言います。

そして私たちは、祈りを通じて、聖書を読むことを通じて、そしてこのように一緒に集まって礼拝をささげたり、交わることによって、日々、日々、油注ぎを新しくしていくことが出来るのです。

古い油注ぎと新しい油注ぎ

残念なことにサウルの上にあった油注ぎはもう古かったというか、新鮮さはなく落ちぶれていました。しかし、ダビデの上にあった油注ぎは違いました。
それは輝きを増して、いよいよ光を放っていたのです。
私たち信じる者の上にある油の注ぎはどうでしょうか。それは新鮮でしょうか、それとも過去の輝きでしょうか。
サウルの上にあった油の注ぎが古くなった原因は、彼の自己中心性にありました。

サウルは言った、「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。あなたがたは行って、なお確かめてください。彼のよく行く所とだれがそこで彼を見たかを見きわめてください。人の語るところによると、彼はひじょうに悪賢いそうだ。サムエル記第一 23:21,22.

彼はいつも自分のことしか考えない男でした。

それに対してダビデは、頂いた聖霊のお力を、神様の自分に対してお持ちのご計画のために~イスラエルの国を王となって治めていくという使命のために用いていこうと努めていました。

しかし、ダビデの日々は困難を極めました。
ダビデもどうしてこんなにまでつらい目に合う必要があるのだろうと疑問に思ったことでしょう。荒野での試練、鍛錬の時、訓練、言うまでもなくそれは、後の彼のどのようにして油の注ぎ、神様から戴いた力や大切な良いものの数々を使っていくのかを、忍耐ですとか、謙遜だとか、必要な資質を学ぶためだったのです。
私たちも主からの油注ぎを受けていくときに、困難な状況を経験するかもしれません。
病や迫害、その他の悩みを通るかもしれません。
しかし、それらも、このダビデのように、私たちが主のご計画のもとに受ける油注ぎに備えるためであることをおぼえましょう。

油注ぎを新しくしていくために その1

6,7節を読みましょう。

ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。 ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。

この右か左か、緊急の決断を要したとき、ダビデは明確に即断することができました。それだけでなく、さらには部下たちまで説得することを心得ていたのです。どうしてダビデにそれが出来たのでしょうか。

次の二つの詩篇を読んでみましょう。

46:4一つの川がある。
その流れは神の都を喜ばせ、
いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5神がその中におられるので、都はゆるがない。
神は朝はやく、これを助けられる。詩篇 46:4

そして、、、

わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。詩篇 57:8

この二つのみことばは、ダビデが習慣的に朝早く起きて、祈っていたことがうかがい知れるみ言葉だとある先生が解説されています。
ダビデは、朝毎に、日ごとに神さまを求めて祈る人だったので、常に油注ぎを新鮮に保つことができて、また必要な時にも、明晰な判断力を持ってことに対処することが出来たのです。そして、彼は御心に従いました!

私たちもダビデのように、ダビデに倣って主の御顔を日々求めるなら、このように聖霊の注ぎを護り、日々新しくしていくことが出来るようになると信じるのです。

とくに、今は世の終わりの時代に入りました。
私たちはこの油注ぎを護り、また日々新しくしていかねばなりません。

油注ぎを新しくしていくために その2

5:7だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 5:8あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。ヤコブ 5:7,8.

雨=油の注ぎは、二回あります。初めの雨=前の雨ともあります。もうひとつは後の雨で、新改訳聖書では秋の雨と春の雨とも訳されています。

後の雨=春の雨とは、終末の時代に降ることが預言されている終わりの日のリバイバルのための油の傾注のことを言います。

それは携挙=空中再臨の前に起こります。

一千万人救霊のビジョンは20世紀には起こりませんでした。

日本で一千万人がまず救われていないので携挙が遅れているのではないでしょうか。

日本の救いのために、そして、艱難前の最後の大傾注の日のために、私たちのすべきことは、来ようとしている大傾注のために日々備えをすることです。
あの五人の賢い乙女のように、油の注ぎを新鮮に保っていくことによってです。

10:22またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 10:23一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。マタイ 10:22,23.

油注ぎは伝道することによって新鮮さを保ち続け、倍加します。

先日、ある方に福音のアプローチを試みたのですが、あっさり断られました!

でも、このことは前進です!なぜなら次の魂の救いに向かって行くからです。

中学二年生の冬休み、札幌から釧路に戻る列車のデッキで、私は新生の喜びに溢れていました。札幌の聖会で回心したからです。
しかししばらくすると母が、こう言います。
「ミツル、主を証ししないと信仰は冷めていくよ。人前でイエス様を証ししないといけないよ。」と。
ちょっと、困ったのです。恥ずかしいな、と。
しかし、せっかく頂いた救いの喜びを失っては元も子もないと思い、勇気を出して初めてクラスでイエス様のことを証しました。

その後、どうなったでしょうか?

火が点いた私は受験勉強もしないで、クラス中の人たちに証しして伝道することになったのです。すっかり変人扱いされてしまいましたが、そしてその後もいろいろあったのですが、それが私の信仰の原点だと、今振り返ってみて思っています。

私たちは主を証しすることで油の注ぎを新しくすることが出来るのです。

お祈りいたしましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:24:1サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。 24:2そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。 24:3途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。 24:4ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。 24:5しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。 24:6ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。 24:7ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。