こんにちは。
庭の家チャペルの牧師、伊藤と申します。
今回はご一緒に聖書が語る「献身」ということについて学んでいきたいと思います。
エゼキエル29:6~7。*1
主が主であることを知る
聖書は、私たちに、神への忠実さ、誠実さということを語りかけています。
エゼキエル書その他の聖書の個所見ていきましょう。
古代BC500年代、当時弱小国家イスラエルはアッシリヤ、バビロン、エジプトといった超大国に挟まれていました。イスラエルはエジプトに助けを求めたのですが、結果は、なんの助けにもならなかったというくだりです。
救いはただ主からくるからです。
このエゼキエル書では、何度も「このとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう」という言葉が繰り返されています。この29章の16節にもあります。
こうして彼らは、わたしが主なる神であることを知る。16節。
ここをギリシャ語に忠実に翻訳されたAmplified Bible(詳訳聖書)で読んでみると、、、
二度とエジプトはイスラエルの国にとって頼りにならなくなる。イスラエルがエジプトに助けを期待するたびにその咎は思い出される。彼らは私が主神であり、一切を支配するものであることを、そして従順な奉仕と忠誠を求める者であることを知るであろう。エゼキエル29章16節Amplified Bible 詳訳聖書
主は歴史や政治、全てを支配されるお方であられます。ハレルヤ!
そしてその方は忠誠と従順な奉仕を私たちに要求されるお方であられます。
このことについては別の個所をも参考に見てみましょう。次の記事は、イスラエルが繁栄していた時、国には忠誠と誠実さがあったという内容です。
旧約聖書Ⅰ列王記1章です。1:5~8を読みます。
1:5さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。 1:6彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。 1:7彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。 1:8しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。Ⅰ列王記11:5~8
時はイスラエルの王ダビデがすでに老人になっていて、すこし認知にもなっていたのでしょうか、そのすきを狙って、王子のひとりアドニヤが勝手に次期の王さまになろうとしたくだりです。そのとき、彼は将軍だったヨアブや祭司エブヤタルらに相談しましたが、預言者ナタンなどには相談しませんでした。どうしてかというと、彼が相談しなかった8節の「祭司ツァドク、エホヤダの子ベナヤ、預言者ナタン、その他もろもろ」とは、かねてから聖霊によって語られていた預言によって次の王さまは、生まれた順ではなく神の御心に従ってソロモンになるというお導きがあったからです。そんなコンセンサスが国中にあったと思われます。そしてダビデを誠実に忠実に支え続けた人たちの間では、そのことが固く信じられていたはずです。人の合議云々ではなく、「神の御心」が第一でした。
永年、ダビデとイスラエルの国家は、そのような神の御心を第一にする人たちによって支えられ続けてきたのです。
また、次の個所も見てみましょう。
2:1ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、 2:2「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。 2:3あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。 2:4また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。列王記第一 2:2-4
父ダビデが亡くなる直前に子ソロモンに命じたことは、誠実と忠実でした。
ある英語の訳は「歩みに気を付けて、気を配り、神に誠実であるなら」と訳されています。
一日の終わりのすごし方~誠実、忠実であるために
一日の終わりを皆さんはどのように過ごしておられますか。リラックス音楽を聴いたり、アロマセラピーなどもいいでしょう。でも、感謝をもって一日を振り返って祈ってから床に就く習慣をもってはどうでしょう。
一日の棚卸
もし感謝に思えることがあったとすれば、それは自分の力や経験や判断によるものではなく、主からのお助けによるものだったと思うことです。自分が賢かったから、~したから。と、自分が神になろうとする愚かさを捨てて、「ただただ神様の恵みによるものでした」と祈ってみるのです。
また逆に、主のみ心を知りながらも従いえなかった今日のことについて、思いを巡らせてはどうでしょうか。それは自分の力で何とかやろう、やってみせるとあがいでいたからだったのではないだろうか、と。一日の棚卸ですね。
棚卸は古い品をチェックして新しいものに替えます。それをしないお店は多分潰れます。家だったら足の踏み場もないくらいに住み心地が悪くなりますね。
聖書は私たちの手足を義の器:道具として神に捧げなさいと言っています。
誠実で忠実であるための原動力
私たちは自分の生来の力で神様のみ心に誠実で忠実であることはできません。それはただ信じる私たちのうちに働かれる聖霊様のお力によるものだからです。
神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださるのです。新約聖書ピリピ2:12。リビングバイブル訳
神様に喜ばれたいという願いは信じる人のうちに働かれる聖霊さまによるものです。またその願いを実行する力も聖霊様の下さるお力によるものです。
というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。第二テモテ 1:7
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である。ガラテヤ5:22
新約聖書のテモテ書が語る「慎み」とは自己訓練という意味です。自己訓練とは主と私たち一人ひとりが自分を吟味して、主により良くささげていく、幸いな神との歩みと育みのことです。柔和とは優柔不断ではなく、みこころに明け渡す心の姿勢のことです。
わたしたちは心配しやすいものです。心配するなと言われても心配してしまいやすくあります。そしてそれは主に信頼していない印でもあります。自分が神となってコントロールしようとしているからです。逆バージョンでは感謝のない心というのは、俺様が頭がいいからだとか、わたしがちゃんとやっているから、とか主を自分の歩みに認めない心の表れでもあります。神様のお恵みだとか慈しみによるものだったのではなかっただろうかと、こころを探って、一日の終わりに感謝しましょう。
救いの感動をあたらしく
「ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいた」 列王記3:3。
ソロモンが父ダビデの言いつけを守り行っていた時、ソロモンは主を愛し、ダビデからのちょっとしたアイデアだとかコツだとかまで教わったことも含めて、聖書の理解を深めながら国を治めていたと思われます。
それはちょうど、旧約聖書ルツ記にでてくるお姑さんに、真実を尽くした嫁のルツの献身に比べられるものでした。ルツはしゅうとのナオミに感謝をもって「あなたの神は私の神」と言ってどこまでもついていったのです。またそれはでエジプト記に登場する、親切な主人に感動をもって終生お仕えすることを選んだしもべのようでもあります。しもべは親切な主人の対応に、もう他のどこにも行きたくありませんと言って主人への献身を表明したのです。
わたしたちもイエスキリスト様からのみ救いを頂いて、罪の赦しと平安を受けて、永遠のいのちの望みの中を、感動をもって日々、再臨の主を待ち望みながら歩み続けています。
では、どうか、ますます、そうであれますように。些細なことで不平や不満をならすのではなく、感謝と賛美を捧げながら残された日々を、過ごせますように。どうか、聖霊さまが、わがうちで、御心にかなう願いを起こさせ、それを実行させてくださいますように。
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。ローマ 12:1
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。