聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「信仰によるいやし」

信仰による癒し

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先週の木曜日、祈るために会堂に来て祈っていると、しばらくのあいだ異言の祈りで祈らされました。この異言の祈りは何のための祈りなのだろうかと、神さまに訊ねてみました。しかし特別な示しも暗示もなく、それまでも別のことについて祈っていましたし、何かのために執り成し祈らされていたのかなと考えましたが、そのあと、新約聖書使徒の働きというところに書かれてあることに従って(使徒の働き4章29‐31*1これからは伝道のために癒(いや)しの祈りをしていくことも必要だという願いがわいてきて、そのためにさらに少し祈ってから帰宅しました。

 

 イザヤ53:3-.*2

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その時、 いやしについての参考になる本との出会いを神様に願って祈ったのですが、あとから、かつて読んだことのあるケネス・へーゲンの「いやしは私たちのもの」という本があったことを思い出しました。

次にあった神のお導き

その翌日、教会員の方の具合が悪いという急な知らせをきいて、「そうだ!癒しは教会から始まらなければならない」と思いました。

「いやしは私たちのもの」を読んで教えられたこと 

イザヤ書53章のみ言葉と、へーゲン師の本に書いてあったことを通して、あることがわかりました。

 二種類のいやし

癒しには賜物による癒しと信仰による癒しの二種類があるということです。そしてイザヤ53章のみことばを、すでに信仰を持ったクリスチャン向けの記事として読んでみるということです。新約聖書にも登場する賜物による癒しは、神のご計画の中で救霊の働きのなかで現れることが多々あったようです。初代教会の記録、「使徒の働き」(新改訳聖書訳)には、伝道活動に、しるしと不思議が力強く伴っていたことが書かれています。その力の現れはその後の初代教父といわれた人たちの時代はもちろんのこと、今日まで継続され続けてきたようです。

改めて教えられて驚いたこと 

イザヤ書53章には、罪からの救いという事について書かれていますが、「いやし」ということについても重複して書かれています。

一般的にキリスト教全般の共通した教えは罪からの救い、永遠の滅びからのです。しかし、素直に読むと、罪からの救いだけではなく、病気やもろもろの患い(問題)からの贖いについても書かれていることに気づくでしょう。

にもかかわらず、信仰者は、「もしみ心なら癒されるでしょう」と言って、「いやし」の救いについては、おまけか付録くらいにしか考えていません。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。イザヤ書53:4

信仰をもったときとの比較 をしてみる

個人的なことを言うと、信仰を持ちたくても持てないというジレンマが若い頃ありました。いったいいつ自分は本当の信仰をもてるようになるのだろうか。恐ろしい地獄の滅びから自分の魂を救い出せるというのだろうかと悩んだことがありました。まだ中学生の時のことでした。

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そのとき、ある方がこう教えてくれました。苗木は植えたり抜いたりしていると枯れてしまう。信じて期待して任せていれば必ず根を張りだすよ。それが信仰を持つという事なんだよ、と。それはまだ小さかった自分にとって十分なインスピレーションでした。期待感がむくむくと膨らみだしてきて、こんな自分でもクリスチャンになれる、救われることが出来る!とうれしさが湧いてきて、生活は一変しました。

信仰を持つ=救われるという体験は聖書のことばに基づくときに実現します。聖書のことばは魂の救いの種子です。 

これを信仰によるいやしについて当てはめて考えてみるとどうなるでしょう。ある人は瞬間的にいやされるかもしれないし、ある人はすこし経ってからいやされることがあります。しかしいずれにしても癒しの約束はすでに聖書に認(したた)められているもので、聖書のいやしについての神の側でのお約束からみれば、それはすでに信じる者のうちに与えられていたものなのだという事なのです。

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へーゲン牧師は、だれかに信仰の癒しの祈りをするとき、腕時計を見なさい、と勧めたそうです。なぜならみ言葉ではすでに癒しは確定した事実なので、率直に、ただみ言葉に基づいて、癒しを受けとめるだけだからです。

その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。5節。

 そこには何ら劇的なパフォーマンスや篤い熱い祈りはなく、祈ってくれる人の信仰深さとかいう祈る人の側の功績に期待してしまうこともなく、信仰の癒しは神のみ言葉の約束に基づいているものなので、そこに期待感が生まれるようになって、現実にいやしが現されていくようになるというものです。

いやしは神のみ言葉に基づいて生じるもの

 自分の信仰が弱いだとかあの人の信仰は強いかも‥‥ではなく、み心なら癒されるでしょう、とかではなく、聖書を率直に単純に適用してみる。

癒しは100%神様のクリスチャンたちへのみ心だという事がわかりました。

二重の救い 

それは天にあっても地にあっても与えられた救い主イエスの御名によるものです。主は十字架上で私たちの魂の救いのための代価を支払われました。同様に主は私たち信じる者がいやされるためにも十字架で血を流されました。

癒しを受け取りましょう。患いから、問題からの解放を戴きましょう。どうぞ次のように言い表してみましょう。

「神の言葉によると、それは癒されています。この~は癒されていると信じます。」(「いやしは私たちのもの」)

そして、どういう病や煩いや問題でも、み言葉のお約束に基づいて願い求めたその祈った時刻を覚えておいて、成長する期待感の中に生まれるいやしと解放の神の救いの力の顕われを享受しましょう。自分のものとしましょう。

 お祈りをいたしましょう

神の言葉のお約束によるなら、私の~の患いは、~の病はいま癒されています。~の問題からは解かれ、~の病はいまいやされています。

 主イエスのお名前によって アーメン

 

*1:4:29主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 4:30そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。 4:31彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。)、

*2:53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。