「御霊のうめきによる祈り」
- 三つのうめき
- 祈り方がわからないということ
- 使徒パウロの天界の経験
- それが「万事益となる」という方向につながっていく
- 自殺未遂者のある体験
- 死後の世界はある。それは二つの道で天国か地獄
- 私たちには使命がある
- お祈りしましょう
ローマ8:26-28*1
今日は御霊のうめきと執り成しの祈りという事について、ごいっしょに学んでいきたいと思います。
三つのうめき
このローマ8章に「三つのうめき」があります。
①22節。被造物全体のうめき。
②23節。私たちクリスチャンがうめいている。
③今日の箇所にある「御霊のうめき」です。
祈り方がわからないということ
26節に、「どのように祈ったらよいかわからない」とあります。
長年クリスチャンをしていても、実際のところ、どう祈ったらよいのかわからないというのが本音です。何を、どのように祈ればいいのかわからないことが時々あります。
このことと関連してコリント書を見てみましょう。
12:7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 12:8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。第二コリント 12:7‐9
使徒パウロの天界の経験
使徒パウロは天界にあげられるという神秘的な体験をしました。ところが、そのあと、神は、パウロに肉体のとげを与えられたと書かれています。なにかの病気だっただろうと言われています。人は神秘的な体験をするとおごりやすくなる傾向があります。人格的なバランスをとるためにパウロは自分の弱さを知る必要が生じました。私たちが何かのことで弱さを覚えるなら、それは神さまにお頼りするようになるという点で天からのギフト、贈り物かもしれません
ここでの「弱さ」は、どう祈ってよいかわからないという「弱さ」です。信仰の巨人とも呼ばれたパウロでさえそうだったのですから驚きです。日ごとに「神さま~ええっと‥‥」となっていたのですから。なんのために、そしてどう祈ればよいのかがわからない。しかし逆を言うと、なんのために、どう祈ればいいのかわからないという弱さに甘んじる時、神第三位格の聖霊が祈る人の祈りを助けて下さるというのです。
イエス様も、どう祈ってよいかわからなかったことがありました。しかし御霊のとりなしによって、その時、神のみ心に適う方向へ導かれました。
こたえは贖罪のための十字架と言う苦難の道でしたが、神さまのみ心に適う方向でした。
それが「万事益となる」という方向につながっていく
26節に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめき」とあります。また27節には「御霊の思い」とありますが、私などは、やはり、異言の祈りのことと関係していると思います。聖霊は、なんと祈ってよいのか分からない時も、愚かなものの祈りをとりなしてくださると信じます。
異言の祈りは自分ではなんと祈っているのかわかりません。意識的には恍惚ではなく、ちゃんと理性も働きますし、とめることもできます。
もし何を祈っているのかわかれば、それは異言ではなくなります。概して私たちの祈りの内容は利己的です。
異言で祈ることは知性のへりくだり
フロスト
何をどう扱ってよいのかわからないということを認めて、へりくだりつつ、み心がなることを祈る祈り~これが御霊のうめきです。
自殺未遂者のある体験
ある女の方が生きるのが嫌になって自殺を図りました。大量の薬を飲みましたが未遂に終わりました。しかし自殺願望はなくならず、その後も機会をうかがっていました。しかし幼いころから教会に通っていた彼女は祈りました。
そのあと彼女は不思議な体験をするのですが、パウロのような第三の天の経験をし、そのときイエス様がはっきりと「今はまだ、あなたがここへ来る時ではない」こと、そして、彼女にはまだ生きているうちにすべき使命があることを告げられます。そのとき、なぜか二つのグループを目にしたそうです。彼女はその後、回復し、すでにお腹にいた子供を無事出産しました。やがてその子は伝道熱心な女の子に成長したということです。
死後の世界はある。それは二つの道で天国か地獄
彼女は、かつて目にした二つのグループの意味が分かったそうです。一つは自分が出会う人たち。もう一つは娘が出会う人たちのことでした。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:16
イエス様を信じて永遠の命に与りましょう。このあとご一緒にお祈りしてください。
私たちには使命がある
これは特殊なケースでみんなが同じ体験をする必要はありませんが、すくなくみても、神さまは私たちに使命を下さっているということの例証です。
神は私たちをイエス様の十字架の贖いによって罪から洗い清めて下さって神の子として下さいました。キリストと共に神の相続人だと17節にもありました。神は私たちを一度も罪を犯したことのない御子と同じものとして見て下さっているのですから、義人の祈りは聞かれるとヤコブ書にもあるので、み心に適う祈りができることを願い、そして、聞かれることを信じて祈りましょう。
お祈りしましょう
天の父なる神さま
わたしは罪びとです
イエス様が私の罪を負って十字架にかかり、死んで三日目によみがえられたことを信じます
私の罪を赦し 新しい永遠の命をお与えください
イエス様の御名によって アーメン
*1:8:26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 8:27そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。