聖書のある暮らし

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「健全な心と奉仕」

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今日の箇所は、教会内での奉仕というテーマを扱っているところです。

このところから、いったい私たちは何を学ことができるのでしょうか。

今回も、ご一緒に、見ていきましょう。

 

 新約聖書ローマ書12:3-8*1

「慎み深い」の意味

3節の終わり、「慎み深く」とありますが、「健全な思い」というギリシャ語の意味が含まれています。

健全な思いとは、健全な自己評価につながることです。

だれしもが自分を重んじながら生きています。自分を大切にするということですね。

しかし、一方で、時々、私たちは、何かのことで思いあがってみたり、逆に、自分はダメな人間なんだという思いに陥ってみたり、その狭間でもがいてみたりします。

 互いの中での自分をとらえる

パウロは、人間の体の各器官のたとえを使って4節以降でさらに教えています。

体の中の一つひとつの器官(心臓、肺など)の働きは、全体として見べきである、そしてそのとき一つ一つの器官は効果的に動くようになるということを言っています。

神からの恵みという可能性

そしてそうなるための可能性は、3節に、神さまからの恵みによるものだと書かれてあります。言い換えれば、自分にはできないと思えても神さまの恵みによる賜物=働き=奉仕=人間関係というものがある~ということですね。

しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。1コリント15:10

信仰の量り 

「信仰のはかりに応じて慎み深い考え方」といわれると何か委縮してしまうようですが、決してそういう意味ではなく、これもまた「健全な心の姿勢」ということに関連した言葉で~たとえば、すぐに高慢になりやすい人は、いったいどうすればそんな背伸びなんかしないでありのままでいられるのか~それとは逆に、自分の能力を正しく評価しないで、自分には何もできないと言って逃げてしまうような人が、いったい、どうすれば勇気と自信の人になって、人との関係の中で、教会の中で、からだ全体を温めることができるような人へと成長していけるのかという事です。

神さまがお一人一人にみ心に従って賜物を分け与えておられるのだから、もしそれが神さまから戴いたものであるとするなら、必ず、そのためのお力をも与えて下さるという信仰が大切ですね。なので、「信仰のはかり」なのです。

怖れや、自信のなさや、自虐的な姿勢に堕することを拒んで、主の恵みで、主のお力で、健全な在り方が出来るという信仰です。

使徒パウロはそれを書いています。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。第一コリント 15:10

 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。ピリピ4:13

キリストの体なる教会にあってのわたし

もし体内の腎臓、肝臓、心臓、肺が、働きすぎで強すぎたらどうなるのでしょうか。

逆に、働かなくなるとどうなるのでしょうか。

また、もしどこかの臓器が病んでいるのを見るとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。困った人だなあという時はどうすればいいのでしょうか。

そんな時は、果たして自分が、これまで人との関係のなかで、キリストの体という人間関係のなかでどうだったのだろうか?ということを考えてみるよい機会です。チャンスです。

自分は、これまでいろんな人間関係の中で、健全に過ごして気だろうか、と。

孤立したり、誤解を与えたり、恨んだり、憎んだり、ひがんだりしてこなかったか。

 

英語の聖書にメッセージバイブル(Message Bible)というのがあります。

それによると、今日の箇所は、

「個々人は、全体としての体によってのみ存在意義を持っています。体とは、選ばれた人々からなるキリストの体のことをいうのです。お互いはそれぞれの存在意義と働きの役割を主のみ体の一肢体としての中に見出します。」ローマ12:4-6 Message Bible.(私訳)

 自分がお互いのためにあるのだということを弁えるとき。

いつも自分のことしか考えてこなかった自分がいて、悪かったなという、自分の愚かさと愛のなさに気づかされることが多々あります。お互いの益の為になることを求める。そうしていくときに、それまで自信がなかったり、意見が言えなかったり、自虐的だったりしてきた自分、しかし、悔い改めと愛のゆえに、前向きな姿勢への変化が始まるのを見ていくようになるのです。

そして、そういう前向きの姿勢の中でこそ、健全な人間関係の回復が始まり、キリストのみ体なる教会の成長の可能性の中で、栄光を神さまにお返ししていけると信じます。

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よく電話をくださった牧師さんのこと

以前、お元気ですかあ?と言っていつもお電話をくださった方のことを思い出しました。でも、自分から電話をかけることはあまりありませんでした。ああ、あの牧師さん、いつも気にかけて下さっていたんだ、お世話になったんだとシンミリ感です。で、わたしも、ある日、そのまねをしてある方にかけてみました。「え?なにかあったんですか」と言われました。「いやあ、~さんのお声が聞きたくなって」とお話ししました。果たして自分のかけた電話で相手の方がどれほど得をしたかは不明です。もしかしたら忙しかったかもしれません。

でも、すこしは喜んでいただけたのではないか、と感じました。

 確かに、その方とは、すこし疎遠になっていたと思います。

でも、その方もかつては何回かお電話をくださった方だったのです。

信仰の可能性があります

こんな自分にいったい何が出来るのだろうか。その人の助けになることは何だろうか。

そして、今まで自分にできることはなかっただろうか。また、すべきことで、してこなかったことはなかっただろうか。

 自分には献身なんかできないと考えてしまうのですが、しかし、神さまが下さった賜物ならば、能力ならば、私は私を強めて下さる方によって、昔の古い考えに縛られることなく、与えられた新しい人間関係のなかで~キリストのみ体の可能性の中に、恵みによって強くされて、謙虚にしかし積極的に労していくことが出来るのだ、という信仰による歩みが広がっていくのです。

 

これからも、健全な心の姿勢の回復と、成長のためにお祈りしていきましょう。


お祈りします

神様。

だめだろう。自分など。そんな古い思いの中から、攻撃的になったり、孤立したり、いろいろとやってきました。しかし、キリストのみからだなる教会の交わりに加えていただいて、そこに新しい可能性があったことを知りました。

わたしにはできません。しかし、神様にできないことはなにもありません。

お世話になったように。良くしていただいたように、わたしもまた、過去を振り返るとき、逆に再出発をしてみたいのです。

十字架と復活の主のおちからのゆえに お願いいたします。

エスキリストのお名前によって アーメン。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

*1:12:3わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。 12:4なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、 12:5わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。 12:6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 12:7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、 12:8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。