「頌栄(しょうえい)」とは、教会の礼拝で歌われる最初と最後の賛美のことです。
このパウロの頌栄から、今日私たちが学べることは何か、神への栄光と賛美ということについてご一緒に学びたいと思います。
これまでの概要
1~8章では、どうやって私たちは救われるのか、ということについて。
そして9~11章は、ユダヤ人の救いについての箇所でした。
今日のパウロのああなんと「神の知恵と知識は測りがたいのか」という頌栄はこの二つについてのもので、いっさいの栄光と賛美を主なる神にお返ししたものです。
このパウロの頌栄から、私たちは、自分の歩みにおいても、一切の栄光を、ただ主のみにお返ししていくということの大切さを、このみことばの中で考えてみることはよいことだと思います。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」33節
人をさえ利用しようとする人間
かすめ奪う者の天幕は栄え、
神を怒らす者は安らかである。
自分の手に神を携えている者も同様だ。
かなり昔ある人とお話した時に、神というものは、手のひらサイズに収めることが出来るような素朴な神がいい、と話す人がいました。でも、それは困ったときだけ神を利用しようとする身勝手で利己的な考え方で、果たしてそれが神と呼べるのか?そう考えたことがありました。
しかし神とは
今日のパウロの頌栄では、神とは、私たち人間には、わからないことがあっても、イエスキリストにある神の私たち一人一人に対するご計画や人生上の「お導き」というものは信頼に値するものなのだと。
だからこそ私たち人間の側では、神への畏(おそ)れる心と、神さまのお働き、お導きを待ち望む心の態度や姿勢をもつことが大切なのだと語っていると思われます。
人間の支配を超えたモンスター
旧約聖書のヨブ記41章にはレビヤタンという生き物が登場します。これは当時のモンスターです。恐竜の生き残りとも考えられていて、人々から恐れられていた生物です。このモンスターの右に出る者はいなかったのです。そしてヨブ記41章はそんな生き物でさえ、われわれ人間には、どうすることもできないのだから、ましてやそんな生き物を創造した造り主に対して、いったいあなたはどうなんだ?ということなんですね。
だれが神のお考えのすべてを、心を知ることができるだろうか?だれが神に助言を与えられるというのか?だれが神に何かを与えて、お返しや恩を着せるようなことが出来るというのか?
神とは、人間とは違って、ただ一人で永遠から永遠に成り立たち、生きていて、ただ一人で計画し、最後にはすべてのことをその御手に収めるお方なのだと。
それは、一言で言えば、神の主権ということです。
その神の主権の前に人間は高ぶりは砕かれなければならないのです。
人生の疑問
よくある疑問に、神がいるなら、なぜこんなことが起こるのを許したのか?
なぜ人を不幸にするサタンを作ったり、善悪の木の実を食べるのを知りながら初めの人間アダムとイブを造ったのか。などなどあります。
しかし、今日のパウロの頌栄に、その議論すべてに、実は、人間である私たちが、私たちには知り尽くせない事どもの中で~神と対等に議論しようではないかという、高ぶりの性質というものが潜んでいることがわかるのです。
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」。
神はすべてのものの原因であり、過程であり、そして終わりと結果であられる。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。エペソ 4:6
さて、神の主権と私たちの関係とは
いかがでしょうか。私たちはああだこうだと些細なことで一喜一憂しやすくあります。でも、それは神の上に立つ事でもあり得ます。勿論、私たちには、独自の判断力や知恵、知識というものがありますが、しかし、より大きな神のご計画とお導きの前には、私たちは沈黙しなければならないのです。
神さまは世の終わりに向かって世界をお導き下さっています。
私たちは自分自身の思い上がりのゆえに、失望しやすく、右往左往しやすくあります。
しかし神の知恵とお導きは測りがたい。
神さまは私たちに最善をもって導こうとされているお方なのです。
神を神として認め崇め、いっさいの賛美をお返ししましょう。
「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
パウロと共に、この祈りが私たちのこれからの祈りでありますように。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:
だれが、主の計画にあずかったか。
11:35また、だれが、まず主に与えて、
その報いを受けるであろうか」。