聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「終末の時代にある真の祈りと礼拝」

f:id:seishonoarukurashi:20200503155454j:plain

二人の人の宮での祈りがここにあります。この一見傲慢な人は特別高慢なひとだったのかというと、そうではなかったようです。当時のユダヤの教えには「感謝祈祷」というのがあって、かの使徒パウロもそのような祈りを唱えていたようです。(参照 ガラテヤ1:14.)

でもこの人の祈りには一つだけ問題がありました。もちろん潔い清々しい生活は理想です。

「だれが主の山に登り得ようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者‥‥。」詩篇24:3.

そんな平安な暮らしが出来たらどんなに良いか。多くの人がやめたくてもやめられない嗜癖で苦しんでいます。彼の祈りは祈りじゃなく人と自分を比較するモノローグ:独白でした。

対するもうひとりはどうやら弁済を迫られ家庭はグヂャグヂャになり前途は真っ暗になってしまって首を吊ろうとも考えていたかもしれない人だったようです。彼は失意の内にその場を去りました。

しかし、不思議なことに神の前に義人(正しい人)とされたのは後者でした。「すべての人は‥神の恵みによりキリストイエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(聖書)。ずたずたでボロボロな時こそ神の前に正しい者と認められる。万策尽きてすべて手放したときイエスの血が贖いの救いの代価として備えられていたことに気づかされる。

このお話はイエスが語った終末の時代シリーズの一つです。終末の時代の祈り方がここにあります。それが先のあげた聖書の言葉にあったイエスの十字架の贖いにある、一対一の〜神との対面の祈りです。

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。 神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。詩篇51:17

十字架の上で流されたイエスの贖いの血の力を賛美いたします。

「終末の時代にある真の祈りと礼拝」というテーマでした。