聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

質実のある暮らし

嗜癖におちいるフェイクな生き方の原因

f:id:seishonoarukurashi:20200504184403j:plain 一日の大半をパソコンの前に座って過ごす高齢者。ある八十を過ぎた方が一日八時間インターネットのゲームで時間を過ごす。さすがに本人もこれはオカシイと気がづいて、自分から病院を受診した。そんな記事が新聞に載っていました。いくつになっても私たちは、充実した生活を送りたいと願いはするのですが、その実、家族間や、人間付き合いで良い関係が持てなくて、そういった嗜癖にいつのまにか逃げ込んでしまうことがあります。

どうやって良い関係をもって行ったら良いのか分からない、そんなところに、気がついたら自分でも抜け出せなくなってしまっている。いろんな暮らしにくさ、陥りがちな嗜癖があります。

 

聖書に見る偽りの生活者

この指導者たちは、よほど愛されたかったんでしょうね。良い席,良い席と目立つような、面目を保てるような上座へ,上座へと、すわる席を気にしていました。私たちにも同じような経験があります。ルカ11:43.

小学生の時、胸に光る〜委員のバッジ。うらやましくて仕方がない。図書委員とか体操委員、美会員とか。でも自分の胸にその輝くバッジが光ることは最後までありませんでした。誰の心にも小さいときから、愛されたい、良くしてもらいたい。大事にしてもらいたい。そんな思いはあります。

しかしイエスはそれだけだとかえって害悪になることがある、と言うのです。愛されたい症候群とでも言うのでしょうか。

 

新しい生き方

エスは「義と神への愛をなおざりにしてはならない」と言われます。それは、「あなたの隣人を自分自身のように愛する」という生き方です。そこにはつぎのような祈りが伴います。

 

自分の一日の上にある神のご意思をもとめる祈り

朝、目覚めた時、どんなにたどたどしい祈りでも良いから、どうか、今日という日、自分の意思ではなく、神の御意志が自分の上になるように、そう祈ってから一日を初めてみてはいかがでしょうか。道徳的に、知的に、霊的に、自分が無力なものであることを認めるところから、その一日は始まります。それがメタノイア(ギリシャ語で「悔い改め」)の意味でしたね。

自分にはできなくても神には出来る。

そして一日の上にある神の御心、ご意思を求め、そしてそのご意思に歩みを委ねてみる。それは冒険的な生き方です。どんなに地味でも,目立たなくてもです。生き生きとして活力ある歩みがそこにあります。