イースターおめでとうございます。
庭の家チャペルの牧師 伊藤です。
今日は、「よみがえりの力に生かされる」というテーマでご一緒に今日の聖書の箇所について考えてみましょう。
イザヤ3:16‐4:1*1
今日の旧約聖書イザヤ3:16~4:1は、シオンの娘の虚飾と高慢という事を語っています。
後半の3:25から4:1を見ると、戦争のことが書いてあって、国が荒廃する様子が書かれています。ですからこの箇所は女性の問題に限らず、当時の社会全体の風潮について書かれてある箇所だということがわかります。
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
聖書は私たちに、見せかけの虚飾は消え去ってゆくことを告げています。
私たちは、このイザヤ書から、何を学ぶことができるのでしょうか。
それは「永遠の為の備え」をしていくことについてではないでしょうか。
先日ある方がお亡くなりになりました。
とてもいい方でしたが、以前から病に冒されていたのです。
しかし、その方がお亡くなりになる少し前に、ご自宅に教会員でお知り合いの方が訪問し祈ってあげました。わずかな時間でしたが、その方はイエス様を信じるお祈りを一緒にされて、最後にはしっかりした声で「アーメン」と言ったそうです。
私たちの教会の婦人会の祈祷会では、なんどもその方のお名前をあげて祈っていたことがありました。
私は、その方は神の御国に行ったと信じます。
そして、祈りはたしかに聞かれるのだということが教えられました。
祈ったもの勝ちですね。
そして改めてクリスチャン冥利ということを思わされました。
どうしてかというと、クリスチャンは死に行く人を永遠の希望へとお導き出来るのですから。
わたしはその天に召された方が生前どういう生き方をされたのかは分かりません。しかし、死にゆく人にとってはどんな飾りも、どんな教養も、地位や立場も、役には立ちません。ただイエスキリストを信じて得られる永遠の命の希望、これだけです!
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。新約聖書 マタイ16:26
わたしは、今回もう一度、その出来事で、死後の世界はあること、天国は実在することを覚えました。
さてイザヤ3:16からの4:1に、「一人の男に七人の女がすがって」とあります。当時、戦争によって男性の人口が減ることによる社会現象的なことを言っているという解釈が一般的です。
しかし、この箇所は、ただそれだけではないと思います。
イザヤ書の他の箇所にやはり「ひとりの男」という箇所があります。
1見よ。一人の王が義をもって治める。王子たちは公正をもって治める。
2一人の男が風を避ける場所となり 暴風からの守りとなる。
渇いた地の川として、疲弊した地の大きな避けどころの岩として。イザヤ32:1,2.KJV 私訳
英語の古い訳キング・ジェームズ・バージョン(欽定訳)です。
その訳にならったのが、日本の文語訳です。以下。
1ここに一人の王あり。正義をもて統べ治め、その君たちは公平をおてつかさどらん。2また人ありて風のさけどころ暴風ののがれどころとなり 渇ける地にある水の流れのごとく 倦(う)みつかれたる地にある大いなる岩陰のごとくならん。 イザヤ32:1,2.文語訳
時代の混乱と、その直後の4:1を考えるとここで言う一人の男に七人の女とは、黙示録に出てくる七つの教会と甦りの主イエスキリストのことを言っているのではないかと思います。
今の世の終わりの時代にある虚栄と虚飾という見せかけが、世界を惑わし、教会もそのような風潮との闘いに巻き込まれていく中で、神さまが与えて下さった守りと勝利の方法はイエスキリストにある十字架の死と復活によるものです。
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 新約聖書ガラテヤ6:14
死んだ人には、金銭も有名な人になることも、どんな立場も誘惑にはなりえません。
聖書は、イエスキリストを信じる者は、十字架に共に主と死んだものであると語っています。
しかし、そうはいっても、現実には熾烈な戦いがあって、信じる者は、世の惑わしがあまりにも激しく抵抗することは不可能にすら感じられることもあるのが実際です。
わたしたちはどうすればいいのでしょうか。
キリストと共に死ぬとはなんでしょうか。それは、無力になるという事です。
時折私たちは物事がうまくいっていると、思いあがってしまって、自分はもう大丈夫だという万能感に惑わされやすくあります。その万能感が躓きの原因です。
信仰者が、弱さを覚えることが出来ることは良いことです。なぜならそのことによって私たちは、謙れるからです。私たちに出来ることは、自分という生身の体をもった者は、様々な世にある惑わしの風潮に、あらがい抵抗することはできないのだ、ということを認めることが最も大切なことだからです。
「この戦いは主の戦いである」と聖書は言うのですから、まずこのことがわからない限りは躓き続け、敗北だけの信仰生活は際限なく続くでしょう。
えっ!それだけでいいのですか?と。そうです。
そうして、自分では何とかしようとしないことです。
主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
詩94:11
主は私の弱さをずっと前からご存じだというのです。
「あ~私はこんなんで、あんなんで~」と祈ると、主は「もういいです。わかりましたから」。そんなことは前ら知っていましたよと。
自分でどうしようこうしようとすること自体が、神の超自然的(超自然的な効力はごく普通に現われます)力の現れを妨げている信仰者の高慢であろうとすることの徴です。
「自分にはできません。しかし、主にはできます。」どんなに凹んでも、主にそう言って、あとはまたいつも通りに歩きだせばいいのです。
その時、父なる神さまが、よみがえりのお力をもって弱い私たちをみ心の為に、また自らが願うような生き方へ変えてくださって、導き続けて下さっているのを見るようになるでしょう。そして、私たちはそのような弱さの中にあって、遣わされていくのです。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:
第4章
4:1その日、七人の女がひとりの男にすがって、「わたしたちは自分のパンをたべ、自分の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」と言う。